隠し妻をやめた朝、私は異国の空で咲き直す

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隠し妻をやめた朝、私は異国の空で咲き直す

GoodNovel new 完結

有光梓(ありみつ あずさ)はうっかりコーヒーをこぼし、インターンの中津花梨(なかつ かりん)の結婚届受理証明書を汚してしまった。 梓が拭き取ろうと証明書を広げたとたん、花梨の顔がぽっと赤く染まった。 彼女は慌てて小さな菓子折りを梓の手に押しつけた。 「副社長、このことは誰にも言わないでくださいね。 主人はちょっと立場のある人で、今はまだ周りに知られると困るんです。 でも大丈夫。私が正式に社長夫人として紹介されたら、副社長の昇進もお給料のことも、ちゃんと口添えしますから」 梓は、開いた結婚届受理証明書に記された男の名前をじっと見つめた。 【小田切奏多(おだぎり かなた)】。 たしかに、ちょっとどころではない立場の人だ。 自分の直属の上司であるだけでなく、5年ものあいだ周囲に隠し通してきた自身の夫なのだから。

チャプター (1)

第1章

有光梓(ありみつ あずさ)はうっかりコーヒーをこぼし、インターンの中津花梨(なかつ かりん)の結婚届受理証明書を汚してしまった。 梓が拭き取ろうと証明書を広げたとたん、花梨の顔がぽっと赤く染まった。 彼女は慌てて小さな菓子折りを梓の手に押しつけた。 「副社長、このことは誰にも言わないでくださいね。 主人はちょっと立場のある人で、今はまだ周りに知られると困るんです。 でも大丈夫。私が正式に社長夫人として紹介されたら、副社長の昇進もお給料のことも、ちゃんと口添えしますから」 梓は、開いた結婚届受理証明書に記された男の名前をじっと見つめた。 【小田切奏多(おだぎり かなた)】。 たしかに、ちょっとどころではない立場の人だ。 自分の直属の上司であるだけでなく、5年ものあいだ周囲に隠し通してきた自身の夫なのだから。 第1話 まるで雷に打たれたかのような衝撃が走り、耳の奥でガンガンと耳鳴りが響いた。 命懸けで自分を愛してくれた奏多が、別の女との結婚式の招待状に顔を並べているなんて。 どうしても信じられなかった。 梓と奏多も、社内恋愛の末に結ばれた仲だ。 当時の梓はまだ奏多のアシスタントだった。出張に同行した先で土石流に巻き込まれ、奏多は泥と瓦礫の下に埋もれてしまった。運よく難を逃れた梓の目の前には、いつまた崩れてもおかしくない山肌が迫っていた。 見捨てて逃げることだってできたはずだった。 それでも梓は残った。夜通し素手で土を掘り続け、両手の指が血まみれになるまで掘り続け、ようやく奏多を助け出したのだ。 梓が入院し、何日も意識が戻らなかったあいだ、奏多は何度も神社へ足を運んだ。 長い石段を、一段上るごとに膝をついて祈りながら上った。 その後も、梓に振り向いてもらうために、できることは何でもした。 梓が好きなものなら、空の星でも取ってきてくれそうなほどだった。 梓が少し眉をひそめただけで、1000億円規模のプロジェクトさえ放り出し、その夜のうちに帰国して「どうした?何か嫌なことでもあったのか」と駆けつけてくるような人だった。 その一途さに心を動かされ、梓はとうとうプロポーズを受け入れたのだ。 ただ、昇進が社長のコネだと思われたくなくて、結婚を伏せておきたいと言い出したのは梓のほうだった。 あのとき、奏多はひどく寂しそうな顔をしていた。 「俺じゃ、梓の夫を名乗る資格もないってことか。隣を歩くことも許されないのか!」 なのに今では、その秘密の結婚が、彼が裏切るための好都合な盾になっている。 梓は結婚届受理証明書をきつく握りしめたまま離さなかった。花梨が何度か引っ張っても、びくともしない。 たまらず花梨が口を開いた。「あれ、どうかされましたか?顔色がすごく悪いですよ」 梓は動揺を抑えきれず、まっすぐに花梨と視線を合わせた。 「この受理証明書、偽物みたいだけど」 「ふふ、そんなわけないじゃないですか」 花梨は思わず笑い、幸せそうに目を細めた。 「昨日、発行してもらったばかりですよ。婚姻届を出したあと、役所の前で記念に写真も動画も撮ったんですから」 そう言うと、花梨はスマホを取り出し、その時の動画を梓の目の前に差し出した。 動画に映る黒いスーツ姿の見慣れた男を目にした瞬間、梓の胸を幾重にも切り裂かれたような激痛が走った。 花梨は梓の様子に気づいていないのか、笑ったまま続けた。 「彼に離婚歴があることも、もちろん知ってましたよ。本人からちゃんと聞いてましたし、私は別に……」 梓はもう聞いていられず、逃げるようにその場を離れた。 給湯室を出ても、オフィスには戻らなかった。何かに取り憑かれたように家へと急ぐ。 道中、奏多からメッセージが届いた。 出張先で撮った昼食の写真に、こんな一言が添えられている。 【梓がいないと、昼飯も味がしないよ。 会いたい。早く帰りたくてたまらない。いっそこの案件、白紙にしちゃおうか?】 梓の手は、小刻みに震えていた。 今回の出張は1000億円規模の重要な案件の契約をまとめるためのもののはずなのに。 それを、彼女のためなら白紙に戻してもいいと言う。 もしかしたら、花梨の動画は合成なのかもしれない。 あるいは自分たちの仲を裂こうとして、わざとあんなものを見せたのかもしれない。 梓は、そう自分に言い聞かせずにはいられなかった。 アクセルをさらに強く踏み込む。一刻も早く家に帰って自分の結婚届受理証明書を持ち出し、役所で真相を確かめたかった。 ところが、自宅に着いて玄関のドアに手をかけたそのとき、奏多と友人の話し声が耳に飛び込んできた。 「なあ奏多、お前のこと、マジで分かんねえよ。 梓さんと離婚して花梨ちゃんと結婚したかと思えば、その一方で梓さんのために1000億の案件を蹴ろうとして、俺たちまで家に呼びつけて梓さんへのサプライズの準備までさせてる。お前、結局どっちが本命なんだよ」 奏多は黒いシャツの上のボタンを三つ外し、ソファに気だるげに腰かけていた。長い脚を組み、事もなげな口ぶりで言う。 「花梨がさ、あの頃の梓にそっくりだと思わないか? 若くて勢いがあって、元気いっぱいで、きらきらしてて、俺のことしか見えていない。 安心しろよ。あの子とはただの遊びだ。梓に敵う女なんていないさ。 あの子は賢いから、偽物の証明書じゃ誤魔化しきれない。飽きたらコネを使って梓と再婚の手続きをすればいい。誰にもバレやしないさ。梓が気づくこともない。 それに、たとえ遊びじゃなかったとして、それが何だっていうんだ。小田切グループの跡取りである俺が、両方手に入れちゃいけない理由でもあるのか?」 友人がたまらず尋ねた。「でもな、梓さんは気性が激しいだろ。バレるのが怖くないのかよ……」 「だからだよ」奏多の目つきが一瞬で凄みを帯び、声を低くして言った。「バレないようにするんだ。もし梓の耳に一言でも入ったら、ここにいる全員、ただじゃおかないぞ」 言い終えると、長い脚を伸ばしてすっと立ち上がる。 「ほら、無駄話はここまでだ。あと1時間で梓が帰ってくるのに、サプライズの準備がまだ終わってない。急げ」 扉の前に立ち尽くす梓は、全身の血の気が一瞬で引いていくのが分かった。 リビングには、奏多が用意したサプライズが広がっていた。 一昨日、梓はほんの何気なく言っただけだった。彼が出張で向かった栄市のスイーツが美味しいらしいと。 奏多は今日、栄市のスイーツを片っ端から買い集めて帰ってきて、床に大きく「Love」の文字を並べていた。 けれど、梓はちっとも嬉しくなかった。滑稽にすら思えた。 一生裏切らないと信じていた男は、とっくに別の女を妻にしていたのだ。 相思相愛だと思っていた二人の間には、いつの間にか第三者が入り込んでいた。 梓はひどく寂しげに笑った。 はっ……いいわ、知られるのが怖いんでしょう。 なら、とことん怖がらせてあげる。自分が知ったら、未練なく出ていくのだということを思い知らせてやる! 梓が踵を返そうとした、そのとき。ギイッと音を立てて風に押された扉が開いた。 奏多の視線が、遠くからこちらに向けられる。 第2話 梓の姿を見た瞬間、奏多の目に動揺がよぎった。 「……梓?いつ帰ってきたんだ?」 梓は深く息を吸い、胸の底の悲しみと怒りを押さえつける。 「たった今よ」 奏多は小さく安堵の息を吐き、長い腕を伸ばして梓を抱き寄せようとした。 「君を驚かせようと思ってたのに、先に見つかっちゃったな」 梓は無意識に奏多の腕を避けていた。 部屋いっぱいのサプライズを前にして、梓の胸に喜びなど少しもなく、あるのは冷ややかな感情だけだった。愛おしそうに見つめてくる奏多の視線に、微かな吐き気さえ覚えた。 「気に入らなかったか?」 宙をつかんだ手を下ろし、奏多は眉をひそめた。胸にかすかな違和感が広がった。 「全部、梓の好きな栄市のスイーツなんだぞ」 梓は振り返りもせず、2階への階段を上りながら答えた。「そうじゃないの。ちょっと疲れただけ。休みたいわ」 奏多はすぐに追いかけようとした。だが突然鳴り出した携帯の着信音が、彼の足を止めた。 奏多が着信を切ると、今度は友人の携帯が鳴り出す。 「奏多、あいつが怪我をしたらしい」 蚊の鳴くような小さな声だったのに、梓の耳にははっきり届いていた。 あいつ。 そう、花梨は奏多の友人の連絡先まで手に入れていたのだ。 奏多に連絡がつかなければ、その友人に。まったく、すっかり正妻気取りね。 梓は冷ややかな笑みを浮かべた。奏多は「会社で急ぎの用ができた。ちょっと片づけてくる」とだけ言い残し、慌ただしく出ていった。 奏多は一晩、帰ってこなかった。 その夜、梓がしたことは三つだけ。 一つ目。家にある自分の私物を整理して、捨てるべきものは捨てた。 二つ目。退職願を書き、人事部にメールで提出して手続きを進めてもらった。 退職の知らせを受けた同僚は、驚きを隠せない声で言った。「副社長、今まさにキャリアの絶頂じゃないですか。いま抱えているあの重要案件をまとめれば昇進が決まるのに、このタイミングで辞めるなんて。ヘッドハンティングですか?」 「まあ、そういうことで」梓は淡々と答えた。 電話の向こうで相手が小さくため息をつく。 「はぁ……分かりました。ただ正式な退職は1か月後になります。その間に、抱えている業務をすべて引き継いでいただかないと」 電話を切ると、梓は三つ目に取りかかった。 旧友にメッセージを送る。 【前に話してた入社の件、まだ有効?大丈夫なら、1か月後にそっちへ行くわ】 間髪入れずに返ってきた【いいよ】の一言。それを見て、梓はようやく窓の外が白み始めていることに気づいた。一睡もせずに夜が明けてしまったのだ。 すっかり物が減ってがらんとした部屋を眺めていると、心の中まで一緒に空っぽになっていくようだった。 必死に押し殺してきた涙が、ついにあふれ出した。 梓は自分に言い聞かせる。奏多のために泣くのはこれで最後。これからは、彼のためになんて一滴も涙は流さない。 …… 夕方、奏多から催促のメッセージが届いた。 【渋滞か?まだ着かないのか?】 そこで梓は、今夜が小田切グループ主催のチャリティーパーティーだったことを思い出した。副社長である彼女も当然出席することになっていた。 次の瞬間、奏多から電話が入った。 「用意しておいたドレス、見たか?」 言われて初めて、梓はリビングのソファに置かれた箱に気づいた。 普段はあまり着ないブランドのものだ。 「どうしてこのブランドなの?」包みを開けながら梓はなにげなく尋ねた。 奏多は冗談めかして言った。「ここ、ペアで着られるラインがあるんだよ。有光副社長は俺を夫として公表してくれないからな。こうやってこっそり、仲のいいところを見せびらかすしかないだろ」 梓の手が止まった。胸に複雑な思いがこみ上げる。 この5年間、梓が結婚を隠したいと言ったせいで、奏多は一度も堂々と彼女の隣に立てなかった。だから梓はずっと後ろめたさを抱えてきた。 今もまた彼のその一言で、罪悪感がじわじわと胸を締め付けた。 けれど30分後。花梨が身にまとう見覚えのあるドレスを目にした途端、後ろめたさも情も、すべて跡形もなく消え去った。 花梨のドレスは、梓が着ているものとペアのデザインだった。 言葉を選ばずに言えば、同じシリーズでまとめて用意されたのだろう。つまり、ついでに宛がわれたのは自分のほうだ。 梓がその場に凍りついていると、そばで誰かが噂する声が聞こえた。 「ねえ、有光副社長のドレス、小田切社長の同伴者の方と同じじゃない?」 「同伴者どころか、あの方は未来の社長夫人でしょ。名目上は秘書ってことになってるけど、小田切社長がパーティーに女性を連れてきたことなんて、これまで一度もないもの。初めてよ」 「まだ付き合ってなくても、いい感じの時期なんじゃない?小田切社長のスーツもどう見てもあの子のドレスとペアだし」 梓の心が静かに底へ沈んでいく。目には隠しきれない皮肉の色が浮かんだ。 ペアの服とは、ほかの女と堂々とお揃いで着るためのものだったのだ。 梓が視線をそらすと、少し離れた場所にいる花梨と目が合った。次の瞬間、花梨は怒りをあらわにしながら、梓のほうへ歩いてきた。 第3話 花梨は梓の前で足を止めた。無垢そうな瞳に、どこか意味ありげな光が浮かんだ。 「わざとですか?」 梓は意味が分からず眉をひそめた。 「社長が私の主人だって知ってるのに、わざわざペアの服を着てくるなんて」 花梨は軽蔑のこもった目で梓を見下ろし、吐き捨てるように言った。 「やり手の女性だって評判なのに、こんな下品な手で男を奪おうとするなんて。気持ち悪いですよ」 梓は冷ややかに花梨を見つめていたが、ふいに口の端を上げて笑った。 「何がおかしいんですか」 花梨は身構えて一歩あとずさる。 「あなたが哀れだからよ」 梓はため息をついた。 「社長に自分から擦り寄る女なんていくらでもいるのに、どうしてあなたはそっちのけで、よりによって私に絡んでくるのかしら。 それはね、あなたが一番よく分かっているからでしょう」 梓は冷笑を浮かべた。 「はっ。私が社長にとって、大切な存在だって?」 梓はここでようやく気づいた。あのコーヒーは、花梨がぶつかってきたせいでこぼれたのだ。花梨は最初から、あの証明書を自分に見せつけるつもりだったに違いない。 花梨の顔色がわずかに変わった。 「何を言ってるのか分かりません」 「分からない?」 梓は片眉を上げ、手にした赤ワインを花梨めがけてバシャッと浴びせた。 「なら試してみましょうか。社長にとって本当に大切なのはどちらなのか」 赤い液体が花梨の額を伝って滴り落ちた。 花梨は信じられないというように目を見開き、梓の鼻先を指さした。 「あなた……!」 だが言い終わるより先に乾いた音が響いた。梓が花梨の指を払いのけ、思い切り平手打ちを食らわせたのだ。 「人に指をさされるのがいちばん嫌いなの」 梓は顔を上げ、駆けつけてきた奏多に目をやった。 大股でやって来る彼の目には焦りの色がありありと浮かんでいる。 近づいてくる彼に、花梨は目を赤くし、ひどく傷ついたように訴えた。「奏多、私……」 ところが次の瞬間、奏多が取り出したのはハンカチだった。彼はそれで、花梨を平手打ちした際に梓の指についた赤ワインを拭い取った。 梓は一言も発さず、そのまま背を向けて歩き出す。 奏多も慌ててあとを追い、花梨のほうを振り返りもしなかった。 花梨は床にへたり込んだまま、信じられないという目でただ呆然としていた。 休憩室。 奏多は片膝をついて梓の手を包み込み、痛ましそうに目を細めた。 「あの子が何をしたか知らないけど、そんなの誰かに任せればいいだろ。わざわざ自分で手を出すことないよ。ほら、手のひらまで赤くなってる」 梓は奏多のつむじを見下ろし、ふっと鼻で笑った。 「社長は女性を連れてこない主義だったのに、今日はどうしたの?急に人が変わったみたい」 奏多はほっと大きく息を吐き、張りつめていた体から一気に力が抜けた。 「……もしかして、妬いてるのか?」 奏多は梓の手の甲に軽く口づけた。 「なんだ、そんなことか。同伴者なんて何の意味もないよ。ちょっと社会勉強させてやろうと思って連れてきただけだ。 だって愛しの奥さんが俺に堂々と隣を歩かせてくれないだろ。仕方なく、ほかの女で代わりを立てたんだ。みんなが同伴者を連れてるのに俺だけ一人じゃ格好がつかないしな」 奏多は梓を抱きしめた。 「嫌なら、もう二度と連れていかない」 梓の視線が半開きになった扉へ向かう。 そこには花梨が立ちすくんでいた。梓を引き裂きたいほどの恨みと嫉妬に燃える目を向けながら、扉を押し開けることも物音を立てることもできずにいる。 梓は眉を上げて微笑み、口の動きだけで告げた。「あなた、そこまで大事じゃないみたいよ」 その夜のパーティーで、その後、奏多が花梨を連れて歩くことは一度もなかった。 花梨の姿をふたたび目にしたのは、酒を飲んだ奏多から電話で「車で家まで送ってくれ」と頼まれたときだった。 梓もかなり飲んでいたため、割れるような頭痛をこらえながら後部座席に身を沈めていた。 奏多が気遣うように梓のこめかみを揉んでくれていたそのとき、車の外から耳をつんざくブレーキ音が響いた。 顔を向けた瞬間、花梨の体が糸の切れた凧のように撥ね飛ばされて宙を舞った。 奏多の顔色が一変した。彼は車から飛び出し、花梨を抱き上げる。 「早く救急車を呼べ!」 梓は一気に酔いが醒めた。自分も降りて様子を見ようとしたが、ドアはロックされていて開かない。 第4話 この車は奏多が手に入れたばかりの新車で、梓はまだ自分の携帯をアプリに連携させていなかった。 そのため、奏多が花梨を抱きかかえて慌てて走り去るのを見送るほかなかった。梓は冷たい窓ガラスを力なく叩き続けたが、誰も助けに来てはくれない。 夜は更け、凍てつくような真冬の寒さだった。車内は暖房も切られており、薄いドレス姿の梓は全身をがたがたと震わせていた。 1時間後、梓はようやく奏多に電話がつながった。 「奏多、私、あなたの車に閉じ込められて……」 言い終わらないうちに、花梨の声が横から割り込んでくる。 「副社長、奏多は今、副社長に構っている余裕はないと思いますよ」 続いて、奏多の声が遠ざかったり近づいたりしながら耳に入ってきた。 「誰かから電話か?」 「あっ、明日の会議の件よ」花梨が慌てて答える。 奏多は苛立たしげに言った。「会議はひとまず中止だ。今は体を治すことだけ考えろ。何が食べたい?買ってくるから、な?」 花梨がわざとらしく甘えた声を出す。「駅の南口にあるお店のお弁当が食べたいな。いい?」 「もちろんだ」 奏多の声が、さらにスマホのマイクに近づいた。 ガサガサと衣擦れのような音がしたあと、梓の耳に奏多のかすれた低い声が届いた。欲を含んだような、ひどく甘い声だった。 「食べたいのは、それだけか?」 花梨が甘ったるい声を出す。「当たり前でしょ。今の私は怪我人なんだから、変なこと考えちゃダメだからね」 体の芯の冷えが、手足のすみずみにまで広がっていくようだった。梓はもうこれ以上聞いていられず、震える手で通話を切った。 吐く息まで氷の欠片になって喉に詰まったようだった。 体温がじわじわと奪われていく。梓は体を丸めながら、ふと、奏多と結婚した最初の年のことを思い出した。 その年、街には珍しく大雪が降った。 寒がりな梓のために、奏多は自宅をまるごと改装し、大金を投じて全館の温度管理システムを整えてくれた。おかげで家の中は、一年中春のような暖かさだった。 あのとき彼は、梓の冷えきった両足を自分のお腹に当てて温めながら、慈しむような目で言ったのだ。 「俺がいる限り、もう二度と寒い思いはさせない」 それなのに今、梓は極限の苦しみと寒さの中で、冷たい闇へと意識を手放した。 目を開けると、そこは暖かい室内だった。それでも梓の体は冷えきったままで、全身が震え、歯の根が合わない。 傍らで、奏多が梓の冷たい手をぎゅっと包み込んだ。 「まだ寒いか?」 梓は反射的に、その手を強く振り払った。 目が合い、奏多の目に明らかな焦りがよぎる。彼は慌てて説明した。 「すまない、車がロックされてたなんて知らなかったんだ。 中津を病院に連れてきたあと、梓は自分で家に帰ったんだと思ってた。俺は……」 梓は疲れ果てた声で彼を遮った。「じゃあ、あの車は誰がロックしたの?あなたじゃないなら、あなたの車のアプリと連携されているのは、ほかに誰なの?」 こんな操作ができるのは、二人を車で家まで送るはずだった花梨しかいない。疑う余地などなかった。 奏多の体がわずかに強張り、その目に険しい光がよぎる。 そこへ、松葉杖をついた花梨が慌てた様子で部屋に入ってきた。目には今にもこぼれそうな涙を浮かべている。 「副社長、誤解ですよ!あのときの私は死ぬ思いをしたんですよ。車のドアをロックしてる余裕なんて、あるはずないじゃないですか」 奏多に背を向けた花梨の目には、明らかな挑発の色が浮かんでいた。私がわざとやったのよと、堂々と梓に告げているかのように。 梓は鼻で笑った。 「ふん。誤解?それってつまり、私を車に閉じ込めたのは奏多だって言いたいの」 「そんなわけないです!」 花梨は思わず声を上げた。 「昨夜私が副社長と同じドレスを着ていたことを恨んでいらっしゃるのは分かります。 でも、だからってこんなふうに濡れ衣を着せなくても。 それに、副社長と社長が結婚を伏せていらっしゃったなんて、私、今まで全然知らなかったんです…… 私が分をわきまえていないとお思いなら、罰してくださればいいんです。私の人格まで貶めるのは、いかがなものかと思います」 そう言うなり、花梨は梓の手首をきつくつかんだ。 「それでも気が済まないなら、私を叩いて憂さ晴らしをしてください」 そうやって殊勝な態度を装いながら梓を追い詰めてくる花梨に、梓は苛立ちを募らせ、思わず手を引っこめた。 その瞬間、花梨の目にほくそ笑むような色がよぎった。そして不自然な悲鳴が上がる。「押さないで!」 花梨の体がくるりとひるがえり、そのまま窓から外へ転落した。 第5話 奏多の顔色が一変した。信じられないという目で梓を見る。 「私じゃないわ」梓はすぐに否定した。 奏多は険しい顔で眉をひそめた。 「じゃあ、梓に罪を着せるために、あいつがわざと3階から飛び降りたって言うのか?」 奏多は目を閉じ、深く息を吸った。 「梓、彼女が命を懸けてまでそんなことをしたって言うのか。 昨夜、俺が中津を同伴者にしたことを、梓が恨んでるのは分かってる。でも……」 失望のこもった視線を梓に向け、奏多は一語一語区切るように言った。 「何があっても、人の命を弄んじゃいけない」 言い終えると、奏多は迷いなく背を向けて出ていった。 梓はその場に立ち尽くしたまま、奏多が我を忘れたように階下へ駆け下りていくのを見ていた。彼の目は、心配と焦りでいっぱいだった。 視線を落とすと、腕にはたった今花梨がつけた3本の引っかき傷が残っている。 奏多は気づいてすらいない。 かつては、血も出ない程度の小さな擦り傷ひとつで、奏多は額に汗をにじませて慌て、自分が痛がるのではと気をもんでいたというのに。 その後の数日間、奏多は家に帰ってこなかった。 梓は同僚たちの噂話から、奏多がずっと病院で花梨の看病をしていると知った。 「社長の慌てぶり、あの二人、本当に何かあるんじゃない?」 「絶対あるって。社長は今まで女っ気なんて全然なかったのに、今は中津さんにつきっきりなんだよ。何もないなんてありえないでしょ」 「みんな知らないでしょ。昨日社長にサインをもらいに行ったら、中津さんにりんごを剥くのに夢中でさ。書類なんてろくに見もしないで、全部にサインしてくれたんだから」 同僚はそう言いながら、退職願を梓に差し出した。 「有光副社長、退職願、社長の承認が下りましたよ」 書類に並ぶ見慣れた名前を眺め、梓は胸につかえていたものをすべて吐き出すように深く息をついた。重かった体がふっと軽くなる。 もうすぐ奏多から離れて、新しい生活を始められる。 翌日、梓が担当していた例の重要案件が、ついに正式な契約にこぎつけた。 これは梓が小田切グループで手がける最後の案件であり、ここ数年で最大規模の契約でもあった。経営陣は祝賀パーティーを開くことに決めた。 パーティーの席で、梓は久しぶりに奏多と顔を合わせた。 体にフィットしたオーダーメイドのスーツ姿。深い色の瞳でグラスの赤ワインをゆっくり揺らしながら、奏多は音もなく梓の隣に立ち、声を落とした。「俺から連絡しなきゃ、電話1本もくれないのか」 「社長のそばには、もう可愛い女性がついているでしょう?」 梓の口調はひたすら冷ややかだった。 奏多は深く息を吸い、苛立ちを隠すように奥歯を噛み締めた。 「……俺は梓を守るためにやってるんだぞ。 ここ数日、俺がそばについていなかったら、中津はとっくに警察を呼んで梓を捕まえさせてた」 彼の言葉が終わるのとほぼ同時に、スポットライトの下で司会者が興奮しきった声で告げた。 「今回、小田切グループがこれほど重要な案件を獲得できたのは、ひとえに社長秘書の中津花梨さんのおかげです! 経営陣は、中津さんをプロジェクト本部長に昇進させることを決定したそうですね。今回の契約を成功させたご経験を、ぜひお聞かせいただけますか」 梓の手が激しく震え、グラスの赤ワインがあやうくこぼれそうになった。 声を震わせながら、梓は一語ずつ絞り出した。「……っ。私の手柄を彼女に譲ったのも、私を守るためだって言うの?」 奏多は少し苛立った様子で言った。「警察を呼ばない条件が、本部長のポストをやることだったんだ。異例の昇進をさせるなら、それなりの理由が必要だろう」 梓は思わず笑ってしまった。 「それで、私の手柄を彼女にあげたのね」 視線が交わる。梓の赤くなった目に触れて、奏多はたまらず口を開いた。「俺はただ、君を刑務所に入れたくなかっただけなんだ」 言葉が終わるや否や、近くにいたプロジェクト部の同僚が寄ってきた。心底納得がいかないという顔をしている。 「副社長、どういうことですか。中津は何のつもりなんです。どうして副社長の手柄を横取りするんですか」 「そうですよ。本部長のポストだって、本来は副社長のものです。たとえ会社を辞められるとしても、こんなやり方はないでしょう」 「辞める!?」 奏多が驚愕に目を見開いた。 「君、辞めるのか?」 第6話 梓はどきりとしたが、けっして顔には出さなかった。 「辞めようかと考えているだけよ」 同僚がまだ何か言いたそうにしている。梓は急いで耳打ちで仕事の指示をいくつか伝え、先にその場を離れさせてから、奏多に素っ気なく言った。 「好きにすればいいわ。どうせ本部長のポストなんて、今の私にはそこまで大事じゃないもの」 冷ややかな梓の表情を見て、奏多の胸にざわつきが生まれた。まるで、梓が自分の手からすり抜けてしまいそうな感覚に襲われた。 でもそんなはずはない。梓は何も知らないのだから、自分から離れていくわけがない。 奏多は一歩前に出て、さらに問いただそうとした。 そのとき、壇上から花梨のおびえた悲鳴が響いた。 「プレゼントを当てるゲームじゃなかったんですか?中で何かが動いてて……なんかプレゼントって感じしないんですけど」 花梨の前には、余興用のボックスが三つ並べられていた。 どれも中身が見えないよう布で覆われ、正面には手を入れるための穴が開いている。 何が入っているのかは、触ってみるまでまったく分からなかった。 梓は眉をひそめ、部下に様子を見に行かせようと体をひねった。その手首を、奏多が力強くつかんだ。 「君がやったのか」 「どういう意味?」 「プレゼントを用意したのは君の部署だろう」 奏多の目が暗く沈む。 「さっき指示を出してた男の同僚は、プレゼントをすり替えに行かせたのか」 梓は深く息を吸った。顔から血の気が引いた。 「誤解よ。私は……」 言い終わらないうちに、花梨がまた悲鳴を上げた。「や、やだ、本当に怖い、この中、本当に何か生き物がいる!」 同僚たちが口々に言う。 「中津さん、考えすぎじゃない?ありえないって」 「そうだよ、プレゼントは俺たちの部署で直接入れたんだ。生き物なんているわけないだろ」 花梨は唇をきゅっと結び、視線を梓に向けて挑むように言った。「そこまで言い切れるなら、副社長、ここに上がって、ご自分で触ってみていただけますか」 梓はためらいもせず壇に上がった。 だが梓が箱に手を差し入れた、その瞬間だった。 中から低い羽音が響き、ほどなく1匹の大きな蜂が穴から飛び出した。 花梨は悲鳴を上げ、反射的に箱を払いのける。 蓋が外れた瞬間、中から何匹ものスズメバチが一斉に飛び出した。 会場はたちまち騒然となった。 梓はその姿を見た瞬間、顔色を変えた。 「スズメバチ……」 なぜこんなものが余興用の箱の中に入っていたのか。考える間もなく、1匹が梓のほうへ向かってくる。 「助けて!」 梓は青ざめた顔で、とっさに奏多を見た。 奏多はすぐさまこちらへ駆けてきたが、次の瞬間、梓のすぐ横を通り過ぎ、そのまま花梨を抱き寄せて庇った。 その直後、花梨を庇った奏多の肩に1匹の蜂が襲いかかった。 ほとんど同時に、梓の手首に鋭い痛みが走った。 蜂に刺されたのだ。 やがて息苦しさが増し、梓の視界まで少しずつ霞んでいく。 梓はふらつきながら、花梨を庇う奏多の背中を呆然と見つめた。 彼がほかの女を優先して助けるなんて、思いもしなかったのだ。 やがて、梓は感覚が麻痺したように目を閉じた。心の中には、がらんとした空白しか残っていなかった。 壇の下では大勢がざわめいていた。 「やっぱり、中津さんと社長ってただの上司と部下って関係じゃなかったんだよ」 「危険なときにこそ本心が出るって言うしね。うちの社長、これで交際を公表するんじゃない?」 「それにしても、なんで箱に本当にハチが入ってたんだろう。まさか副社長が仕組んだんじゃ……もしかして、社長に片思いしてて、それで……」 数えきれないほどの指さしと、いぶかしげな視線にさらされ、梓は絶望の底に突き落とされたようだった。 奏多が花梨を腕に抱きかかえ、大股でその場を去ろうとしたとき、梓の視界は暗く塗りつぶされ、そのまま意識を失った。 梓に蜂毒アレルギーがあり、アナフィラキシーを起こしたため、丸一日にわたる懸命な救命処置を受け、ようやく命の危険を脱した。 その後も病室で何日も横になっていたが、奏多は一度も見舞いに来なかった。 奏多からふたたびメッセージが届いたのは、梓が会社からの通知を受け取ったのと同じ時だった。 【退職までの1か月の期間が満了しました。これをもって正式に退職となります】 奏多からのメッセージは無視して、梓はそのまま会社へ行き、正式な退職手続きを済ませた。 会社を出るとき、奏多は会議中だった。ガラス越しに目が合うと、彼は唇の動きだけで言った。「仕事が終わるまで待ってて。一緒に帰ろう」 梓は表情ひとつ変えずに視線を外し、そのまま会社をあとにした。家に戻ってスーツケースを提げると、タクシーで空港へ向かった。 1時間後、退勤の時間になると、奏多からメッセージが届いた。 【どこにいる?】 梓は返事をしなかった。電源を切り、SIMカードを抜き取って折る。 飛行機が雲を突き抜けていく中、梓はまったく新しい人生へと旅立った。

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