離婚理由は誰も私の好物を覚えていなかったから

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離婚理由は誰も私の好物を覚えていなかったから

GoodNovel new 完結

息子・藤堂直也(とうどう なおや)の5歳の誕生日、夫・藤堂翔吾(とうどう しょうご)の秘書である橘珠希(たちばな たまき)も家にやって来た。 私・藤堂清佳(とうどう きよか)が料理をテーブルへ運んでいった時、珠希は直也を抱き上げて一緒に写真を撮っていた。 「ご飯できたよ」と声をかけようとしたそのとき、直也が突然珠希の腕から飛び降り、私を指す。 「珠希姉ちゃんはネギ嫌いなのに、ママ、なんでそんなにたっぷりネギ乗せてるの?」 その声を聞いて、翔吾も後ろからやって来た。私が持っている皿を見るなり、眉をひそめる。 「別のを作ってくれないか?珠希はネギが苦手なんだ」 私は返す言葉もなく、その場に立ち尽くした。 今日の食事を用意するために、4時間もキッチンに立っていた。 翔吾の好きな角煮を煮込み、直也の好物のエビフライも作って、珠希の好物である魚の煮付けまで用意した。 全部で10品。その中で、私が自分のために用意したのはネギをたっぷり乗せた冷奴一皿だけ。 それなのに直也は、私がネギを好きなことすら覚えていなくて、翔吾もただ作り直せと言うだけ。 「ママ、肉じゃがも作ってよ。珠希姉ちゃん、好きだからさ」 私が黙っていると、翔吾が私の背中を押し、キッチンへ戻るよう促した。 「早く作ってくれよ。今日は直也の誕生日なんだから、雰囲気を悪くするな」 ダイニングテーブルでは、直也が左手で珠希と手をつなぎ、右手では翔吾の手を握っていた。 楽しそうに笑う3人は、まるで本当の家族のように見える。 私はしばらくその光景を眺めたあと、黙ってエプロンを外した。 この家に私の居場所がないのなら、もう身を引こう。

チャプター (1)

第1章

息子・藤堂直也(とうどう なおや)の5歳の誕生日、夫・藤堂翔吾(とうどう しょうご)の秘書である橘珠希(たちばな たまき)も家にやって来た。 私・藤堂清佳(とうどう きよか)が料理をテーブルへ運んでいった時、珠希は直也を抱き上げて一緒に写真を撮っていた。 「ご飯できたよ」と声をかけようとしたそのとき、直也が突然珠希の腕から飛び降り、私を指す。 「珠希姉ちゃんはネギ嫌いなのに、ママ、なんでそんなにたっぷりネギ乗せてるの?」 その声を聞いて、翔吾も後ろからやって来た。私が持っている皿を見るなり、眉をひそめる。 「別のを作ってくれないか?珠希はネギが苦手なんだ」 私は返す言葉もなく、その場に立ち尽くした。 今日の食事を用意するために、4時間もキッチンに立っていた。 翔吾の好きな角煮を煮込み、直也の好物のエビフライも作って、珠希の好物である魚の煮付けまで用意した。 全部で10品。その中で、私が自分のために用意したのはネギをたっぷり乗せた冷奴一皿だけ。 それなのに直也は、私がネギを好きなことすら覚えていなくて、翔吾もただ作り直せと言うだけ。 「ママ、肉じゃがも作ってよ。珠希姉ちゃん、好きだからさ」 私が黙っていると、翔吾が私の背中を押し、キッチンへ戻るよう促した。 「早く作ってくれよ。今日は直也の誕生日なんだから、雰囲気を悪くするな」 ダイニングテーブルでは、直也が左手で珠希と手をつなぎ、右手では翔吾の手を握っていた。 楽しそうに笑う3人は、まるで本当の家族のように見える。 私はしばらくその光景を眺めたあと、黙ってエプロンを外した。 この家に私の居場所がないのなら、もう身を引こう。 第1話 家を出て2時間経っても、誰からも連絡は来なかったし、どこへ行ったのかと尋ねるメッセージさえない。 スマホを開くと、ちょうど珠希が投稿したインスタが目に入った。 誕生日ケーキを切る直也と、頬杖をついて笑顔で見守る珠希が写っている写真。 背後の窓ガラスには、二人にカメラを向けている翔吾の姿まで映り込んでいる。 真っ先に「いいね」をつけ、コメントを残していたのは義母・藤堂和子(とうどう かずこ)だった。 【珠希ちゃん、また時間があるとき遊びに来てね。あなたに会いたいわ】 珠希はすぐに返信していた。【はい!私もお会いしたいです】 スマホをポケットにしまい、私は深く息を吐き出した。 直也の誕生日なのに、母親である私がその場にいないことに、誰も気づいていない。 いや、気づいていないのではなく、気にしていないのだろう。 10品もの料理を作った私がネギが好きなことさえ、誰も気に留めなかったのだから。 ちょうど帰宅ラッシュと重なり、交差点は大勢の人で混み合っていた。 青信号の残り時間をぼんやり眺めながら、私はいつからこんなふうになったのだろうと考えた。 翔吾が珠希の正社員登用を祝うために、私の誕生日を忘れたときから? それとも、直也が幼稚園で【大好きな人は珠希姉ちゃん】と書いたときから? 信号が青に変わり、私は人の流れに乗って横断歩道を渡った。 その途中、少し緩くなっていた指輪がするりと抜け落ち、乾いた音を立てて路肩へ転がってしまった。 それは、私と翔吾の結婚指輪。 6年前、翔吾は今ほど裕福ではなかったため、この指輪を買うために半年分の貯金を使い、こう言いながら私にはめてくれた。 「清佳。俺にとっては、いつだって清佳が一番だから」 あの頃の私は、その言葉を信じていた。 幼い頃から両親に顧みられずに育った私は、ようやく一生自分を大切にしてくれる人に出会えたのだと思っていたけれど、今、私が自分で選んだ夫も、私がこの手で育てた息子も、私を通り過ぎて別の人のもとへ向かっている。 その時、翔吾から電話がかかってきた。 「今、家にいないのか?直也が遊園地に行きたいって騒いでるんだけど」 電話の向こうからは、直也の楽しそうな声も聞こえてくる。 「珠希姉ちゃんと一緒に行く!ママはすぐダメって言うから嫌!」 直也は生まれつき体が弱かった。 だから私は遊園地へは連れていかず、冷たい飲み物も飲ませなかった。 それどころか、直也の世話をするために、昇進が決まっていた仕事まで辞めた。 けれど直也にとって、私の愛情はただ楽しいことを邪魔するものだったらしい。 翔吾も私に聞こえたことに気づいたのか、一瞬黙ってから言った。 「君は人混みが苦手だったよな?俺が直也と珠希を連れて行ってくるよ」 そこで電話は切れた。 ちょうど信号が赤に変わり、後ろにいた人に押される。 「渡らないなら、そこに突っ立ってないでよね」 日差しの中、落とした指輪が路上で光っていた。 でも、私は拾わずに、振り返ることもなくその場を離れ、電話をかけた。 「もしもし。離婚協議書を作っていただきたいのですが」 そして、もう一つだけ伝える。「ええ。子供の親権はいりません。夫に渡します」 家に戻ったときには、もう夜の9時を回っていた。 翔吾も直也もまだ帰っておらず、テーブルに並べた料理はすっかり冷めきっていた。 第2話 私は玄関に立ったまま、しばらく家の中を眺めていた。 やがて靴を履き替えてキッチンへ行き、ネギをたっぷりのせた冷奴を手に取る。 ネギはすっかり乾燥して、色がくすんでいた。 10品作った中で、唯一、自分が食べたくて作った料理。 しばらく見つめたあと、私は残りの料理と一緒にゴミ箱へ捨てた。 後片づけの最中、玄関の外から直也の弾んだ声が聞こえてきた。 「パパ、珠希姉ちゃん、今日はすっごく楽しかったね!」 ドアが開き、大きなウルトラマンのおもちゃを抱えた直也が勢いよく飛び込んでくる。 その後ろから、いくつもの買い物袋を提げた翔吾と、ウサギのぬいぐるみを抱えた珠希が入ってきた。 「直也くん、そんなに走ったら転んじゃうよ」 靴を脱いでいた翔吾は、ダイニングにいる私に気づくと一瞬驚いた顔をした。 「帰ってたのか?」 私は何も答えない。 それでも、翔吾も特に気に留める様子はなく、買い物袋をソファに置きながら何気なく言った。 「少し遅くなっちゃってさ。直也が楽しそうだったから、そのままショッピングモールにも寄ってきたんだ」 すると直也が珠希の手を引き、嬉しそうに私のところへやって来た。 「ママ、見て!珠希姉ちゃんのブレスレット、綺麗でしょ?パパと一緒に選んだんだよ」 ブレスレットに散りばめられた小さなダイヤが、照明を受けてきらきらと輝いている。 珠希は少し申し訳なさそうに声を落とした。 「社長が、直也くんの誕生日に付き合ったお礼に、と。でも、本当にこんなことしていただかなくてもよかったんです。直也くんはすごくかわいいですし、私も大好きなので」 翔吾はそんな珠希を見て、穏やかな口調で返した。 「それとこれとは別だよ。それに、一日中付き合ってもらったんだから、君も疲れただろ?」 翔吾はそれから何かを思い出したように、ポケットから小さな箱を取り出した。 思わず私の手が止まる。 箱の中に入っていたのは、ブローチだった。 「これは母さんに。少し前に、ストールに合わせるブローチが欲しいって言ってたからさ」 私は黙って翔吾を見た。 そこでようやく気づいたのか、翔吾は少し気まずそうな顔をする。 「今日は人も多かったし、ゆっくり見てる時間もなくて……君のは忘れちゃったよ」 忘れた。 しかし、それを聞いても、不思議なくらい驚きはなかった。 6年前なら、どれだけ仕事が長引いて帰りが深夜になっても、翔吾は私の好きなモンブランを買ってきてくれた。 「ほかの人はどうでもいい。でも、清佳にだけは、ちゃんと買って帰らないとな」あの頃は、そう言っていたのに。 今はみんなに何かを買ってあげ、そこにいなかった和子の分まで用意している。 何もないのは、私だけ。 直也が駆けてきて、翔吾を見上げる。 「パパ、珠希姉ちゃんのウサギ、僕のお部屋に置いてもいい?」 翔吾は笑った。「それは珠希姉ちゃんのだから、珠希姉ちゃんに聞かないとな」 ドアのそばにいた珠希が、優しく微笑む。 「もちろんいいよ。直也くんの好きなところに置いて」 珠希が優しく答えると、直也は歓声を上げた。 そんな3人を見ていると、キッチンの明かりが妙にまぶしく感じた。 私がずっと黙っていることに苛立ってきたのか、翔吾が口を開く。 「清佳、今日は一体どうしたんだ?直也の誕生日なのに勝手に出ていったと思ったら、帰ってきてからもずっとそんな顔して。客の珠希が気まずくなるだろ」 「社長、私は大丈夫ですから。清佳さんも、きっと疲れてるでしょうから」 珠希が慌てて間に入ったが、翔吾は眉をひそめた。「何に疲れるんだ?一日中家にいて、仕事だってしてないのに」 皿を洗っていた私の手が止まった。 流れ続ける水が皿に当たり、跳ねた雫が袖を濡らす。 「今日の料理、朝10時から14時までずっと作ってたんだけど」 翔吾が一瞬、言葉に詰まった。 すると横にいた直也が、不満そうに口を尖らせる。「でも、ママの料理にはネギが入ってたじゃん。珠希姉ちゃん、食べられないのに」 翔吾もすぐに続けた。 「ほら、直也だって珠希がネギを食べられないことを知ってる」 「じゃあ翔吾は、私がネギを好きなこと知ってる?」 空気が一瞬で静まり返った。 翔吾はわずかに眉を寄せ、直也もきょとんと目を瞬かせている。 誰からも答えは返ってこない。 私は洗った皿を食器棚へ戻した。 「いいよ。どうせ大したことじゃないから」 …… 翌朝、私が起きたときには、翔吾はもう会社へ出ていた。 ダイニングへ行くと直也が朝食を食べていて、なぜか珠希までいた。 私の姿を見るなり、すぐに立ち上がった珠希。 「清佳さん、すみません。社長が朝から急な会議に入ってしまって、資料を取りに来るよう頼まれたんです」 第3話 私はうなずくだけで、キッチンへ行って水を一杯注いだ。 その時、冷蔵庫の扉に貼られていた新しい付箋に気づく。 【社長は胃が弱いので、朝はアイスコーヒーを飲まないでくださいね】 その文字をしばらく見つめてから冷蔵庫を開けると、昨日残しておいたネギがなくなっていた。 珠希がそばへ来て、私の顔色をうかがうように口を開く。 「清佳さん、悪気があったわけじゃないんです。でも、冷蔵庫の中にちょっと匂いがこもっていたので、ほかの食材に移ったらよくないと思って、それで……」 すぐに直也が珠希をかばった。 「ママ、珠希姉ちゃんだってわざとじゃないよ。だって、ネギって臭いじゃん!」 「そう」それだけ答えて、私は冷蔵庫を閉めた。 まだ幼いとはいえ、直也は人の顔色には敏感だ。 だから、私があまりにも平然としていたせいか、一瞬きょとんとしたものの、それでも、すぐにテーブルへ戻って朝食を食べ始めた。 珠希だけは、どこか不思議そうに私を見ている。 以前の私なら、こんなことがあれば多少は不快な顔をしたからだろう。 そして決まって、翔吾が間に入ってこう言った。 「清佳、そんなに気にすることじゃないだろ」 気にしすぎ。翔吾はいつも、そう言って片づけた。 珠希が自由に家へ出入りすることを嫌がっても、気にしすぎ。 珠希が直也の幼稚園の先生と連絡先を交換したことに引っかかっても、やっぱり気にしすぎ。 でも、もうどうでもよかった。 朝食を終え、珠希が自分から直也を幼稚園まで送ると言い出したところに、ちょうど弁護士から離婚協議書の草案をメールで送ったと連絡が入ったので、私はベランダの椅子に座り、一項目ずつ内容を確認していくことにした。 親権の項目に、少しだけ目が止まる。 生まれたばかりの直也は、13日間も保育器に入っていた。 その間、私は昼も夜も病院で待ち続け、ろくに眠ることさえできなかった。 3歳になるまではほとんど毎月のように体調を崩し、夜中に熱を出すたび、抱きかかえて救急外来へ駆け込んだ。 昔は、「世界で一番ママが好き」と言ってくれたこともあった。 けれど、それもいつの間にか忘れてしまったらしい。 昼過ぎ、幼稚園の先生から保護者のグループへ、金曜日に親子工作の行事があるため、両親のどちらか一人は参加してほしいという内容の連絡が入った。 返信しようとした矢先、直也のキッズ携帯からの着信が入る。 「ママ、金曜日は来なくていいからね」 「どうして?」 「もう先生に、珠希姉ちゃんが来るって言ったから」 少し黙ってから、私は言った。「でも、それは親子で参加する行事でしょ?」 直也は当然のように言い放つ。 「だって珠希姉ちゃんのほうが工作上手だもん。ママはいつも遅いし、僕にハサミも使わせてくれないじゃん」 電話の向こうで、友達が直也を呼ぶ声がした。 「ママ、怒らないでね。それにママだって、家にいる方が好きでしょ?」 通話が切れても、私はベランダの椅子に座ったまま、しばらくそこから動かなかった。 午後になると翔吾が帰ってきたので、てっきり親子行事の話をしに来たのだと思った。 ところが、開口一番に言われたのは、「金曜日、直也が珠希と参加したいって言ってるから、清佳は行かなくていいよ」という言葉だった。 私はそっと目を閉じた。 翔吾は私が怒ると思ったのか、先手を打つように声を低くする。 「清佳、誰と行きたいかは直也が決めることだから、あんまり深く考えるな」 思わず小さく笑った。「そうね」 すると、意外そうな顔をした翔吾。「いいのか?」 「うん」 ほっとした様子を見せた翔吾だったが、ふと私の手元に目をやった途端、表情を変えた。 「清佳、指輪は?」 いずれ話さなければならないのなら、今ここで伝えてしまおう。 私は立ち上がり、翔吾をまっすぐ見た。 「翔吾。私たち、離……」 最後まで言い終える前に、翔吾のスマホが鳴った。 電話に出た翔吾の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。 「そうか。引き受けてくれて助かるよ。当日は直也のこと、よろしくな」 通話を終えても、その顔にはまだ笑みが残っていた。 翔吾は改めて私を見ると、なだめるように言った。 「清佳、珠希が直也の行事に付き添ってくれることになったから、その日はゆっくり休んでて。それと、傷がついたら、また新しいのを買えばいいんだから、家事をするときに指輪は外さなくていいぞ」 私が何か言う前に、翔吾はそのまま家を出ていった。 金曜日、私は幼稚園へ行かなかったけれど、代わりに珠希が参加した。 その日のインスタに、直也が珠希の隣で、少しいびつな紙の家を掲げている写真が投稿される。 【初めての親子行事。緊張したけど、楽しかった!】 第4話 翔吾がいいねを押していた。 和子もコメントを残している。 【直也、上手にできたわね。珠希ちゃんもお疲れさま】 しばらく画面を見つめてから、私はスマホを伏せた。 午後になると和子がやって来て、その後ろには、珠希と直也もいた。 家に入るなり、直也が興奮した様子で声を上げる。 「おばあちゃん、珠希姉ちゃんが作ったおうち、先生に褒められたんだよ!」 「あら、すごいじゃない。珠希ちゃんは本当に器用ねえ」 満面の笑みを浮かべていた和子だったが、ソファに座っている私に気づくと、少しだけその笑顔が薄れた。 「清佳、あまり言いたくないけど、親子行事なんて大事なものに、どうして珠希ちゃんを行かせたの?珠希ちゃんだって迷惑でしょうに」 「直也から聞いてないんですか?橘さんと行きたいって言ったのは直也ですよ」 和子は言葉に詰まったようだったが、すぐに眉をひそめる。 「子どもなんて、自分によくしてくれる人になつくものよ。あなたも少しは自分のことを振り返ったほうがいいんじゃない?」 ちょうどそのとき、翔吾が帰ってきた。 玄関に入ってきた翔吾から、珠希がごく自然に上着を受け取る。 「社長、今日の直也くん、幼稚園ですごく頑張ってましたよ」 「そうか。今日はありがとう」珠希を見る翔吾の表情は穏やかだった。 すると、ソファに座っていた和子がふと思いついたように口を開いた。 「翔吾、珠希ちゃんは最近あちこち行ったり来たりで大変でしょ?それに、今借りてる部屋も、もうすぐ契約が切れるんじゃなかった?だったら何日か、うちに泊まってもらったらどう?」 私は顔を上げた。 しかし、翔吾は靴を脱ぐ手を止めたものの、すぐには断らない。 その一方で、直也は嬉しそうにカーペットの上で飛び跳ねた。 「本当?珠希姉ちゃん、うちに泊まるの?」 珠希のそばまで駆け寄り、その腕に抱きつく。 「やった!毎日、珠希姉ちゃんに絵本読んでもらえる!」 はしゃぐ直也を見て、翔吾の表情も和らいだ。 「清佳。珠希には、とりあえず何日かうちに泊まってもらわないか?」 「それ、私に相談してるの?」 「相談じゃなきゃ何なんだよ」 翔吾は眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせずに続ける。 「清佳、最近どうしたんだよ?みんなにいじめられてるみたいな顔するの、やめてくれないか?」 和子もすぐに口を挟んだ。 「そうよ。あなたは毎日家にいるんだし、一人増えたら家のことだって手伝ってもらえるでしょ?なのに、何がそんなに不満なの?」 すると珠希の目がみるみる赤くなった。 「清佳さんが本当に嫌なら、私、泊まりません。私のせいで清佳さんと社長が喧嘩するなんて……本当にすみません」 翔吾はすぐに珠希を見た。「君のせいじゃない」 そして私に向き直り、責めるように言う。「ほら。君がそんな言い方するから、珠希が気にしてるだろ」 そんな言い方って、どんな言い方? ふと、直也の誕生日を思い出した。 10品も料理を作って、その中で唯一、自分のために作ったネギ入りの一皿。 けれど、それを見た直也は、「珠希姉ちゃんはネギが嫌い」と言い、翔吾は私に作り直せと言った。 私が黙っているのを了承したと思ったのか、翔吾の口調が少しだけ穏やかになる。 「じゃあ、そういうことでいいな。明日、運転手に珠希の荷物を運ばせるから」 直也が嬉しそうに手を叩いた。 「珠希姉ちゃん、僕の部屋の隣に泊まって!僕のナイトライトも貸してあげる!」 和子も微笑ましそうに笑みを浮かべる。「それがいいわ。家族みんなで賑やかなほうが楽しいものね」 家族みんなで。 その言葉を聞いて、私は小さく笑って立ち上がった。 翔吾がこちらを見る。「どこ行くんだ?」 私は答えず、そのまま寝室へ向かった。 引き出しの一番下には、今日の午後に印刷しておいた離婚協議書と私の部分はすでに記入してある離婚届が入っている。 それを手に取っている間も、リビングからは直也の弾んだ声が聞こえていた。 直也が珠希に好きなカーテンの色を尋ねれば、和子もゲストルームのシーツが地味だからピンクに替えたほうがいいと言っている。 そして翔吾は、低い声で答えた。「珠希が過ごしやすければ、何でもいいよ」 私がリビングに戻ると、翔吾がうんざりしたように顔を上げる。 「清佳、今度は何だよ」 私は彼を見つめ、静かに言った。「別に何もしないよ。橘さんがこれからどこに住もうと好きにすればいい。ゲストルームでも、寝室でも。どうせ今日から、私には関係ないから」 そう言って、私は書類を翔吾の前へ差し出す。 翔吾は何気なくテーブルへ目を落とした。そして、そこに印刷された「離婚協議書」と「離婚届」の文字を目にした瞬間、その表情が固まったのだった。

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