真夏に消える彼

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真夏に消える彼

GoodNovel 完結

私の恋人、深町夏央(ふかまち なつお)は、夏だけ姿を現す渡り鳥だ。 一年で最も暑い7月と8月になると、彼は決まってどこかへ飛び去り、音信不通になる。 会社から派遣される「特別プロジェクト」で、極秘任務だから一切連絡は取れない――彼はそう言っていた。 だから昨年、私が交通事故に遭い、2か月もの間病院で生死の境をさまよっていたときでさえ、彼からはただの一言もなかった。 そんなある日、私は偶然、海の向こうで暮らす親友のSNSのサブアカウントを見つけた。 そのアカウントは毎年7月と8月になると頻繁に更新され、投稿されているのは彼女と息子の日常、そしてスタンプで顔を隠された「パパ」の姿ばかりだった。 動画の中で、「顔隠しのパパ」は男の子と一緒に遊園地で花火を眺め、海辺で貝殻を拾い、嫌な顔ひとつせず、お馬さんごっこをして遊んであげていた。 時折映り込む横顔も、目尻のほくろも、手の甲の傷痕も、あまりにも見覚えがあった。 そのすべてが、彼は夏央なのだと私に突きつけていた。 毎年、夏休みの丸60日間。 それが5年も続いていた。 彼はどこかへ飛び去っていたわけではない。 ただ、自分の家族のもとへ帰っていただけだったのだ。 私は呆然とソファに座り、窓の外に照りつけるまぶしい陽射しを見つめた。 そしてふと思った。 ――今年はもう、この息苦しい夏を耐え抜く必要などないのだと。 私はスマホを手に取り、家族から持ちかけられていた縁談を受け入れると返事をした。 彼の夏が私のもとに留まってくれないのなら、私の四季も、彼のためにむなしく費やす必要はない。

チャプター (1)

第1章

私の恋人、深町夏央(ふかまち なつお)は、夏だけ姿を現す渡り鳥だ。 一年で最も暑い7月と8月になると、彼は決まってどこかへ飛び去り、音信不通になる。 会社から派遣される「特別プロジェクト」で、極秘任務だから一切連絡は取れない――彼はそう言っていた。 だから昨年、私が交通事故に遭い、2か月もの間病院で生死の境をさまよっていたときでさえ、彼からはただの一言もなかった。 そんなある日、私は偶然、海の向こうで暮らす親友のSNSのサブアカウントを見つけた。 そのアカウントは毎年7月と8月になると頻繁に更新され、投稿されているのは彼女と息子の日常、そしてスタンプで顔を隠された「パパ」の姿ばかりだった。 動画の中で、「顔隠しのパパ」は男の子と一緒に遊園地で花火を眺め、海辺で貝殻を拾い、嫌な顔ひとつせず、お馬さんごっこをして遊んであげていた。 時折映り込む横顔も、目尻のほくろも、手の甲の傷痕も、あまりにも見覚えがあった。 そのすべてが、彼は夏央なのだと私に突きつけていた。 毎年、夏休みの丸60日間。 それが5年も続いていた。 彼はどこかへ飛び去っていたわけではない。 ただ、自分の家族のもとへ帰っていただけだったのだ。 私は呆然とソファに座り、窓の外に照りつけるまぶしい陽射しを見つめた。 そしてふと思った。 ――今年はもう、この息苦しい夏を耐え抜く必要などないのだと。 私はスマホを手に取り、家族から持ちかけられていた縁談を受け入れると返事をした。 彼の夏が私のもとに留まってくれないのなら、私の四季も、彼のためにむなしく費やす必要はない。 第1話 動画の中で、男の子はスタンプで顔を隠された男の肩車をしてもらっていた。 「パパ、たかいたかいして!」 「よし、パパが優太をたかいたかいしてやるぞ」 夏央の声だった。 7年も愛し合ってきたのだ。聞き間違えるはずがない。 コメント欄には、羨ましそうな質問が寄せられていた。 【何年経ってもこんなに幸せそうだなんて、一体どうやったら愛を長続きさせるんですか?コツを教えてください!】 米村花奈(よねむら はな)はこう返信していた。 【秘訣は、お互い10か月間それぞれのことに忙しくして、残りの2か月を二人で思いきり愛し合うことかな】 窓から差し込むまぶしい陽射しが、スマホの画面に反射していた。 私は全身から血の気が引いていくのを感じた。 夏央と付き合って7年。 彼はいつも忙しいと言っていた。 会議に追われ、出張に飛び回り、二人の未来のために必死で働いているのだと。 記念日のデートが取りやめになるのは当たり前で、私の誕生日でさえ、どうにか時間をつくって一緒に昼食を取るのが精いっぱいだった。 私だって、不満を口にしたことはある。 「一日くらい、休みを取れないの?」 すると彼は困ったように言った。 「もう子供じゃないんだ。デートより大事なことだってあるだろ」 けれど、本当は休みがなかったわけではない。 彼の休暇が、私のためのものではなかっただけだ。 私は花奈のプロフィール画面を開いた。 丸5年間。 毎年7月と8月になると、一日も欠かさず投稿が更新されていた。 動画の中で、夏央は男の子に絵本を読み聞かせ、一緒にレゴを組み立て、泣いて駄々をこねれば、不器用な手つきで抱き上げてあやしていた。 花奈のカメラに映る彼は、非の打ちどころのない夫であり、父親だった。 私は投稿を一つずつ遡っていった。 そして、昨年7月に投稿された動画にたどり着いた。 位置情報は、南の島。 夏央は男の子を抱きかかえ、打ち寄せる波の中で楽しそうに笑っていた。 花奈は、こんな言葉を添えていた。 【あなたたちと一緒なら、どこにいても最高の夏】 投稿日は7月10日。 その日、制御を失ったトラックが、私の車に正面から突っ込んだ。 車体は大きくひしゃげ、私は肋骨を折る大ケガを負った。 さらに複数の臓器が損傷し、内出血を起こしていた。 病院は何度も彼に連絡を取り、合計47回も電話をかけたが、ただの一度もつながらなかった。 私は丸2か月間病院に入院し、その間に何度も生死の境をさまよった。 夏央がようやく現れたのは、9月になってからだった。 彼は私の手を握り、申し訳なさそうな目で言った。 「小暖(こはる)、すまない。あのプロジェクトは本当に重要で、どうしても抜けられなかったんだ」 私は、どうにもならなかったという彼の事情をすべて理解し、受け入れた。 けれど今、その「どうしても抜けられなかった」という言葉が、画面に映る南の島の陽射しと、男の子を抱いて無邪気に笑う彼の声に重なった。 突然、胃がぎゅっと引きつり、吐き気とともに酸っぱいものが喉元までせり上がってきた。 私はトイレに駆け込み、便器にしがみつくようにして何度もえずいた。 そこへ母から電話がかかってきた。 「小暖、さっき送ってきた、縁談を受けるっていうメッセージ、本当なの?」 電話の向こうから、隠しきれない喜びが伝わってきた。 「やっと気持ちを切り替えてくれたのね。よかったわ。そういえば、あの子とはあなたも小さい頃に会ったことがあるのよ。来週帰国するから、私が二人の顔合わせをセッティングするわね。お互いに問題がなければ、そのまま婚約を進めましょう」 母は昔から夏央を気に入っていなかった。 普通の家の子なのに野心ばかりが強く、結婚相手にはふさわしくないと思っていたのだ。 私は彼のために、何度となく家族に反抗した。 勘当される覚悟で親に歯向かったことさえある。 今になって思えば、あのとき交わした激しい言葉の一つ一つが、痛烈な平手打ちとなって私の頬を打ち据えているようだった。 ひりつくほど、痛かった。 電話を切ると、私は南の島行きの最も早い便を予約した。 ――夏央。 あなたがどうしてもこちらへ飛んで帰れないというのなら、私のほうから、あなたの夏をこの目で確かめに行く。 第2話 13時間のフライト中、私は一睡もできなかった。 頭の中では、花奈のアカウントで目にした光景が、何度も繰り返されていた。 米村花奈――大学時代の4年間、毎日のように一緒にいた親友。 卒業後、彼女は何も告げずに海外へ渡り、私たちは次第に連絡を取らなくなった。 まさかこんなにも惨めな形で、再び私の人生に踏み込んでくるとは思いもしなかった。 飛行機が着陸すると、私はまっすぐビーチへ向かった。 花奈が2時間前に、SNSを更新していたのだ。 【昨夜、優太がビーチに行きたいって言ったら、今朝早くパパが来てくれたので、さっそく出発!】 人混みの向こうに、夏央の姿を見つけた。 私とのペアルックは子供っぽいと言って嫌がっていた彼が、今は派手なおそろいの親子コーデに身を包んでいる。 花奈は小走りで彼に追いつくと、背伸びをして、食べかけのアイスクリームを彼の口元へ差し出した。 夏央はわずかに顔をそらし、眉をひそめた。 私の手のひらに、ぎゅっと力が入る。 彼は甘いものが大嫌いだった。 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。 ミルクティーを飲み終えた私が、ただ彼にキスしようと顔を近づけただけで、夏央は露骨に眉をひそめ、容赦なく私を押しのけた。 甘ったるい味がすると、思考の邪魔になる――そう言ったのだ。 それなのに今は―― 「甘すぎるだろ」と苦言を呈しながらも、彼はおとなしく顔を寄せ、花奈が持つ残り半分のアイスクリームを口に入れた。 人との境界線を厳格に守り、いつだって冷静で節度を失わなかった夏央が、誰かのためにこれほど譲歩することもあるのだ。 一瞬、私のほうが他人の幸せな家庭をこっそり覗き見ている、日の当たらない侵入者のように思えた。 「それが、あなたの言っていた『どうしても抜けられない特別プロジェクト』なの?」 私は三人の背後から声をかけた。 振り向いて私の姿を認めた瞬間、彼らの顔に浮かんでいた笑みが凍りついた。 夏央は反射的に左へ一歩踏み出した。 花奈と男の子を、自分の背後へしっかりとかばうように。 「小暖、どうしてここに?」 その本能的なまでの庇護する姿が、目に突き刺さるように痛かった。 私は唇の端を引きつらせた。 「あれ?三人家族の休暇を邪魔しちゃった?」 男の子は夏央の服の裾を固く握り締め、今にも泣きそうな声で尋ねた。 「パパ、どこかに行っちゃうの?」 夏央は男の子の頭を優しく撫でた。 「大丈夫だ。パパはどこにも行かない。ここでずっと優太と一緒にいるよ」 花奈は顔を青ざめさせ、震える唇を開いた。 「小暖、これには事情があるの。説明を――」 私は鼻で笑った。 「何を説明するの?親友の恋人を奪うために、どれだけ必死に誘惑したかってこと?」 花奈の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。 その姿は大学時代と何も変わっていなかった。 つらいことがあると下唇を噛み、潤んだ瞳を伏せる。 あの頃、彼女が奨学金の申請書を紛失して学生課の担当者に叱られたとき、私は再発行してもらうために3度も窓口へ足を運んだ。 その後、彼女が家賃を払えなくなったときには、貯めていたお金をすべて彼女に振り込んだ。 彼女は私に抱きついて泣きながら、一生かかってもこの恩をどう返せばいいのか分からないと言った。 それからしばらくして、彼女は何も言わずに海外へ渡った。 何か困ったことがあったのではないかと心配した私は、数え切れないほどメッセージを送った。 けれど、一度も返事は来なかった。 「もうやめろ」 夏央が私の言葉を遮った。 「小暖、言っていいことと悪いことがあるだろ。花奈は俺を誘惑なんかしていない」 胸の奥を、力任せにねじり上げられたようだった。 「じゃあ、二人とも望んでこうなったってこと?あなたたち三人家族の幸せを邪魔している、私のほうが悪者?」 花奈が慌てて私の腕をつかもうとした。 「違うの。そうじゃないのよ。小暖、話を聞いて」 ちょうどその手に陽射しが落ち、指にはめられたダイヤの指輪が鋭くきらめいた。 その光が、私の目を容赦なく刺した。 昨年のクリスマスイブのことを思い出した。 夏央のコートをハンガーに掛けようとしたとき、奥深くに隠されたベルベットの箱を偶然見つけたのだ。 私はこっそり蓋を開けて中を確かめると、すぐに元の場所へ戻した。 その夜、私はずっと待っていた。 心を込めて用意したキャンドルディナーがすっかり冷めてしまっても、彼がその箱を取り出すことはなかった。 後日、それとなく尋ねてみると、彼は淡々と答えた。 「ああ、あれか。顧客から注文を受けたオーダーメイド品のサンプルだよ」 その「サンプル」が今、花奈の指にぴったりとはまっていた。 私は勢いよく腕を引き、花奈の手を避けた。 その反動で花奈は後ろによろめいた。 彼女が声を上げるより早く、夏央が腰に腕を回し、しっかりと抱き留めた。 そして私を見上げ、責めるような口調で言った。 「話があるなら、落ち着いて話せないのか?花奈は貧血気味なんだ。乱暴に押したりするな!」 ――ほんの少しよろめいただけで、そこまで心配するの?じゃあ、私は? 私は彼をまっすぐ見つめた。 「去年、私が交通事故に遭って2か月も病院にいて、死にかけたことを知ってる?」 夏央は眉間にしわを寄せた。 「もう済んだことだろ。今はこうして元気なんだから、それでいいじゃないか」 第3話 その瞬間、全身から力が抜け落ちた。 生き延びさえすれば、どれほど苦しんだとしても、すべてなかったことにできるらしい。 怒りも悔しさも、喉の奥に詰まった綿の塊のようになり、言葉にすることができなかった。 私は背を向け、その場を立ち去ろうとした。 夏央は数歩で追いつくと、強引に私の手首をつかんだ。 「どこへ行くんだ?ただでさえ方向音痴なのに、ここは外国なんだぞ。迷子になったらどうする?」 私は無理やり車の後部座席へ押し込まれた。 30分後、車は白い一戸建ての前に止まった。 庭にはアジサイとレモンの木が植えられ、ポーチには風鈴が吊るされている。風が吹くたび、澄んだ音が鳴り響いた。 玄関先に立った私は、思わず息をのんだ。 エントランスのアーチ。 吹き抜けのリビングに設けられた大きな窓。 右手にある半オープンタイプの書斎。 暖炉の脇に造り付けられた本棚の形まで、私が描いた設計図とまったく同じだった。 2年前、私は胸を躍らせながら、夏央を新築住宅の内覧会へ連れていった。 「ここを買って、二人の新居にしない?」 あの頃の私は夜更かしを重ね、ありとあらゆる資料を調べ、何度も図面を描き直した。 二人で暮らす未来の家を、隅々まで丁寧に思い描いていたのだ。 私が宝物のように大切にし、何度も何度も描いた未来の青写真。 それが今、この場所で別の女の家になっていた。 そのとき、キッチンから聞き覚えのある声がした。 「今日はずいぶん早かったのね。花奈ちゃん、何が食べたい?私が作ってあげるわ。肉じゃがなら、もうほろほろになるまで煮込んであるの。優太もおなかがすいたでしょう?」 振り向いた私は、目を疑った。 そこにいたのは、夏央の母親だった。 彼女は重度の高血圧と冠動脈疾患を患っており、昔から身体が弱かった。 ここ数年、何度も入退院を繰り返すたび、私は知人を頼って評判の専門医を紹介してもらい、病室でもつきっきりで看病してきた。 彼女は誰に会っても、私は娘も同然だと褒めていた。 なんて滑稽なのだろう。 私は愚かにも、その言葉を本気で信じていた。 夏央の母親は後ろめたそうに視線をさまよわせ、私と目を合わせようともしなかった。 「......優太、おいで。おばあちゃんとブロック遊びをしましょう」 広々としたリビングには、たちまち私たち三人だけが残された。 夏央と花奈は同じソファに並んで座った。 私は一人、向かい側のソファに腰を下ろした。 その座り方だけで、立場の違いはあまりにも明白だった。 招かれもしないのに押しかけてきた部外者は、私のほうだ。 重苦しい沈黙を最初に破ったのは、夏央だった。 「もう全部知っているなら、これ以上隠しても仕方ない。大学四年の卒業パーティーで、みんな酔っていた。俺も花奈もまともな判断ができる状態じゃなかったし......翌朝目を覚ましたときには、もう取り返しのつかないことになっていたんだ」 花奈は目を真っ赤にして、か細い声で続けた。 「小暖、あなたに合わせる顔がないことは分かってるの。だからあのことが起きたあと、私はその日の夜に航空券を買って、海外へ逃げるように出ていったの......ちゃんと避妊薬も飲んだのに、まさか......妊娠するなんて」 そこまで言うと、彼女は不意に顔を上げ、取り乱した目で私を見た。 「医師に言われたの。私は身体が弱いから、もし中絶したら、もう二度と妊娠できなくなるかもしれないって......小暖、私だって一人の女なのよ。母親になる権利を自分から残酷に奪えるはずないよ」 花奈の泣き声が、さらに激しくなった。 「本当に二人の仲を壊すつもりなんてなかった......優太が1歳のとき、急性肺炎になるまでは。怖くてたまらなくて......それで初めて夏央に連絡したの」 夏央は困り果てたように言った。 「小暖、子供に罪はないんだ。優太には父親が必要だ。だから俺は毎年2か月だけ時間をつくって、父親として果たせなかった責任を埋め合わせている。それだけだ」 彼は私の目をまっすぐ見つめた。 「その2か月を除けば、残りの10か月はずっと君のそばにいる。それだけでは足りないというのか。俺には君に対する責任もあるが、優太に対する責任もある。両方の責任を果たそうとすることの、何がいけないんだ?」 第4話 夏央の、さも自分が正しいと言わんばかりの顔を見つめていると、私はとうとう耐えきれずに笑い出した。 ガラスの破片を飲み込んだような痛みに、笑いながら涙までこぼれた。 「5年間も私に隠し続けて、何も知らない馬鹿みたいに振り回して......この5年間、悪かったのは全部私だったとでも言うの?」 青ざめていた花奈の顔が、みるみる赤くなった。 彼女はその場で、どさりと私の前に膝をついた。 「小暖、本当にごめんなさい。どんなに謝っても足りないことはわかっている。でも、誓って言うわ。あなたの代わりになろうなんて、一度も思ったことはない。だから......お願いだから、優太が1年に2か月だけパパと過ごす権利を奪わないで。子供には何の罪もないの」 子供に罪はない。 また、その言葉。 だから、その報いをすべて私が受けて当然だというの? そのとき、二階から慌ただしい足音が聞こえてきた。 「ママをいじめるな!」 男の子が階段を駆け下りてきた。 勢いよく私の脚に体当たりすると、小さな両手を握り締め、夢中で私を殴り始めた。 「悪い女!出ていけ!ママをいじめるな!」 さらに飛びかかってきて、私の手の甲に噛みついた。 私はとっさに腕を上げ、めちゃくちゃに振り回される拳や足を防ごうとした。 私の手は、男の子の服に触れてすらいなかった。 それなのに夏央は、目を血走らせて飛び込んできた。 そして私を力任せに突き飛ばした。 「子供に手を出すな!」 腰がリビングテーブルの鋭い角に激しくぶつかった。 昨年の事故で負った古傷が、再び引き裂かれたようだった。 腰から炸裂した痛みが背骨を駆け上がり、頭皮まで突き抜ける。 私は息をのみ、テーブルに手をついて、どうにか倒れずに踏みとどまった。 夏央は床に片膝をつき、かすり傷一つ負っていない男の子を抱き締めた。 「大丈夫?どこかぶつけてないか?もう大丈夫だよ、優太。パパがいるからな」 彼は振り返って私を見た。 その目には、隠そうともしない警戒と怒りが浮かんでいた。 「この子はまだ5歳なんだぞ!腹が立つなら俺にぶつければいい。子供相手に何を本気になってるんだ!」 突然、花奈が泣き崩れた。 「もうやめて......全部、私が悪いの......」 彼女は泣きながら床から立ち上がると、よろめくように玄関から飛び出していった。 「花奈!」 夏央の顔色が変わり、迷うことなく彼女を追いかけた。 私も二人のあとを追って外へ出た。 レモンの木が落とす、まだらな木陰の下。 夏央が花奈の腕を引き、胸の中へ抱き寄せた。 彼女は泣きながら、彼の腕から逃れようともがいた。 「あなたに連絡なんかするべきじゃなかった......優太にあなたを父親だと教えるべきでもなかった......毎年2か月だけでもあなたと一緒にいられるなんて、そんな望みを抱いたこと自体が間違いだったみたい......もう私を行かせて。あの人は私を心の底から憎んでる。優太を連れてここを出ていくから、もう二度と二人の邪魔はしない」 夏央の顔が険しくなった。 「一人で優太を連れて、どこへ行くつもりだ?また優太が病気になったらどうするんだ」 花奈は彼の胸に顔を埋め、声にならないほど泣きじゃくった。 「でも、私は小暖にひどいことを......」 夏央は彼女の顔を両手で包み込んだ。 「心配しなくていい。俺が何とかする」 そう言い終えると、彼は勢いよく顔を伏せた。 潮の香りを含んだ風の中。いくつもの風鈴が揺れる、庭のレモンの木の下で。 二人は周囲の目など気にも留めず、いつまでも唇を重ね続けた。 私は声を上げて邪魔をしなかった。 駆け寄って二人の頬を平手打ちしてやりたいという衝動さえ、もう湧いてこなかった。 長年胸を蝕んでいた痛みが、この瞬間、ようやく力ずくでえぐり取られた。 痛みさえ消えてしまえば、あとに残ったのは、これまでにないほど澄み切った意識だけだった。 私は背を向け、来た道をたどって歩き始めた。 夏央からメッセージが届いた。 【小暖、花奈は今、ひどく取り乱している。もう先に帰ってくれ。この2か月が終わってから、改めて話し合おう】 この5年間、私はずっと待ち続けてきた。 彼の会議が終わるのを。 出張から帰ってくるのを。 あの「特別プロジェクト」とやらが終わるのを。 けれど、もう待たない。 私は夏央のアカウントをすべてブロックし、連絡先からも削除した。 2か月も待つ必要はない。 私は来週、婚約するのだから。

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