さよならは言わずに、海を渡った

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さよならは言わずに、海を渡った

GoodNovel 完結

あなたはいつ、大好きな人を諦める決心をするのだろう。 私の場合は、留学の申請がようやく通った日だった。申請が通ったことを知った瞬間に、彼氏にメッセージを送って報告しようとした。 けれどLINEを開いて、下までスクロールしてやっと彼とのトーク画面を見つけた。 最後にやり取りしたのは1ヶ月前の何か小さなことで、大喧嘩をした日だ。 最後は彼から音声メッセージが届いた。声には、どこか投げやりな響きが混じっていた。 「芽依、茉優だってわざとじゃないだろ。そんなに根に持つなよ」 「先に茉優の実験データを印刷しに行ってくる。戻ったら、ケーキ買ってやるから」 その後から彼は、後輩の桃井茉優のコンテスト指導や実験に付き合うのに忙しくなった。 私も単位のことやプロジェクト、IELTSの対策とやることが山積みで、彼に返信をする余裕すらなかった。 あの時の自分が何を根に持っていたのか、それすら思い出せなくなった。 ただ、1ヶ月経ってこのやり取りを見返して、ふと気づいたことがある―― 本当の別れに「さよなら」の一言なんて要らないものなんだと。

チャプター (1)

第1章

あなたはいつ、大好きな人を諦める決心をするのだろう。 私の場合は、留学の申請がようやく通った日だった。申請が通ったことを知った瞬間に、彼氏にメッセージを送って報告しようとした。 けれどLINEを開いて、下までスクロールしてやっと彼とのトーク画面を見つけた。 最後にやり取りしたのは1ヶ月前の何か小さなことで、大喧嘩をした日だ。 最後は彼から音声メッセージが届いた。声には、どこか投げやりな響きが混じっていた。 「芽依、茉優だってわざとじゃないだろ。そんなに根に持つなよ」 「先に茉優の実験データを印刷しに行ってくる。戻ったら、ケーキ買ってやるから」 その後から彼は、後輩の桃井茉優のコンテスト指導や実験に付き合うのに忙しくなった。 私も単位のことやプロジェクト、IELTSの対策とやることが山積みで、彼に返信をする余裕すらなかった。 あの時の自分が何を根に持っていたのか、それすら思い出せなくなった。 ただ、1ヶ月経ってこのやり取りを見返して、ふと気づいたことがある―― 本当の別れに「さよなら」の一言なんて要らないものなんだと。 第1話 私・早瀬芽依(はやせ めい)の出国前最後の食事は、親友の松岡結菜(まつおか ゆいな)と一緒だった。 「時間が経つのって本当に早いね。前にこの店に来たのは、芽依の彼氏が告白を計画してた時だっけ……」 結菜は言いかけて、何かを思い出したように言葉を止めた。 しばらく黙り込んでから、小さな声で聞いてきた。 「芽依、本当に別れたの? あんた、あいつのこと丸ごと10年も好きだったじゃない」 私はきゅうりの酢の物を箸でつまんだ。 酢が効きすぎていて、酸っぱさに舌がひりついた。 別れた?まあ、そういうことになるんだろう。 実際のところ、黒瀬蓮(くろせ れん)と私の間に「別れよう」なんてセリフはなかったし、儀式めいたお別れの挨拶もなかった。 ただ、日常となりつつあった冷戦の末、お互いに「これもいつもの喧嘩だろう」と、当たり前のように思い込んでいたに過ぎない。 しかし、今回は違った。 そのまま、続きはなかった。 私たちはそれぞれの生活を続けた。相変わらずご飯を食べて、勉強をして。 ただ、お互いに連絡を取らなくなっただけ。 ……それが、私たちが辿り着いた「別れ」の形だったのだろう。 店員が使い終わった皿を下げてから、テーブルの上に焦げ跡が小さく残っているのが見えた。 それを眺めていて、箸を動かすのを忘れていた。 2年前、同じこの店で、蓮は私の友人を全員集めて、大掛かりな告白を計画した。 彼は自分の体を特大の着ぐるみに押し込んで、ハート型の風船を大きな束で抱えながら、そっと私の前まで運んできた。 風船の紐の先には、値の張るブレスレットと、1万字にも及ぶラブレターが結びつけられていた。 後から蓮が言うには、着ぐるみの中に隠れたのは、もし告白が失敗した時のためだったらしい。 あの着ぐるみの中でなら、誰にも見られずに泣けるから、と。 けれど、まさか私が頷くとは思っていなかったようだ。 彼は嬉しさのあまり、私を抱き上げてくるくると回り、その拍子にテーブルの上の飾り用のキャンドルを倒して、テーブルの端を少し焦がしてしまった。 あの時、蓮は店主の桑原丈治(くわばら じょうじ)に頭を下げて謝り、弁償を申し出た。 丈治は、蓮が私の手をしっかりと握っているのを見て、気前よく手を振った。 「弁償はいらないよ。でも兄ちゃん、付き合うからにはちゃんと大事にしてやりな」 あの時の蓮の目はきらきらしていて、必ずそうすると力強く言い切った。 その後、彼は確かに約束を守って、ずっと私によくしてくれた。 ただその優しさは、後輩の桃井茉優(ももい まゆ)にも同じように向けられていた。 また新しい皿が運ばれてきて、我に返った私は一瞬戸惑った。 「すみません、これは注文していないのですが……」 丈治はにこにこしながら私に手を振った。 「サービスだよ。久しぶりに来てくれたんだから」 そう言ってから、「あれ」と声を上げた。 「彼氏くんは?一緒じゃないのかい?」 第2話 何と答えればいいのか分からなかった。 結菜も黙ったまま、私の皿に料理を取り分けてくれた。 丈治は、その沈黙から何かを察したようだった。 不意に肩を軽く叩かれた。 「もつは熱いうちに食べな。時間が経つと臭みが出てくるから」 そう言うと、丈治は厨房の奥へ戻っていった。 私はまだぐつぐつと煮立っているもつ鍋を見つめながら、唇を噛んだ。 そうだ。蓮とはもう1ヶ月も連絡を取っていない。今さら何を話したところで、この鍋と同じように、以前と同じ味わいにはならない。 いつからこうなったんだろう。 たぶん、最後に喧嘩をした時からだ。 具体的に何が原因だったのかは、もう覚えていない。 覚えているのは、彼に長文のメッセージを何通も送って、電話も数えきれないくらいかけたことだけだ。 私はひどい言葉ばかり並べたのに、蓮はずっと黙ったままだった。 最後、電話をどう切ったのかも覚えていない。2時間後、彼から2つの音声メッセージが届いた。 「芽依、茉優だってわざとじゃないだろ。そんなに根に持つなよ」 「先に茉優の実験データを印刷しに行ってくる。戻ったら、ケーキ買ってやるから」 彼は本当に、私の寮の下までケーキを持ってきた。 私は返信もせず、下にも降りなかった。 ルームメイトの話では、彼は下で10分ほど待って、その後に電話がかかってきてそのまま行ってしまったらしい。 その時間帯に彼に電話をかけてくる人間なんて、茉優しかいない。 私は寮のベッドに突っ伏して泣き、いつの間にか眠ってしまった。 翌日、目が覚めてスマホを開くと、メッセージが3件届いていた。 指導教員からが2件、結菜からが1件。 蓮からは、何も来ていなかった。 私は魔が差して、茉優のインスタを開いた。 昨日の夜、彼女は実験室にいる投稿を上げていた。 写真の端に、彼女のデータ記録を手伝っている人の手が写り込んでいた。 その手の指には――私がいつも見慣れている指輪がはめられていた。 私はその写真をじっと長い間見つめてから、勢いで蓮をブロックした。 けれどすぐに、それで彼と連絡が取れなくなるのが怖くなるという、自分でも情けない気持ちになった。 何度も試すようにブロックを解除しては、また悩んで。 けれど、彼が改めて連絡してくることは、一度もなかった。 たぶんその頃から、私たちはお互いの生活の中で少しずつ薄れていったんだと思う。 気づかないうちに、完全に相手の人生から退場していた。 正直に言うと、私も自分から蓮を訪ねて、話し合おうか迷ったことがある。 あの日は、わざわざ彼の好きな軽食を買って、傘をさして彼の寮の下まで行った。 土砂降りの雨の中でも、蓮の後ろ姿はひと目で分かった。 彼は傘も差さずに、焦った様子で自分の上着を脱いで、茉優の頭にかけていた。 二人は寮の下まで駆け込んで、お互いにびしょ濡れの姿を見て、示し合わせたように笑い合っていた。 私は、蓮の顔に浮かんだその笑みを見ていた。 【今、あなたの寮の下にいるんだけど、時間あったら少し話せない?】 その一文は、結局最後まで送信できなかった。 その時になって初めて分かった。この関係はずっと、私一人だけが右往左往していたんだって。 私はまるで道化だ。 最後に私は、一文字一文字、その文章を消していった。 それから、LINEのトーク画面のピン留めも外した。 傘をさしたまま、振り返らずにその場を去った。 …… 私は自分を追い込むように、学業に集中し始めた。 自分から指導教員に、もっと多くの仕事や実験を志願するようになった。 死に物狂いでIELTSの勉強を始めた。ただ、この苦しい場所から逃げ出したい一心で。 そうして、今に至る。 スマホがピロンと鳴って、メッセージが1件届いた。 開いてみると、それはまさかの蓮からだった。 内容はとてもシンプルで、たった1文だけだった。 【前に美味しいって言ってた、あの焼肉屋って何て名前だっけ?】 結菜が私の表情に気づいた。 「彼から?」 私は「うん」と小さく頷いた。 結菜は眉をひそめて、まったく理解できないという顔をした。 第3話 「何それ、あいつ、一体何様のつもりなの?1ヶ月も連絡してこなかったくせに、最初の一言がそれ?」 答えようとした瞬間、店のドアの開く音と、従業員の「いらっしゃいませ」と言う声が店内に響いた。 蓮がドアを押して入ってきた。隣には、はしゃぎながら跳ねるように歩く茉優がいた。 彼の肩にかけられた茉優のバッグを見て、私は唇を噛んだ。 なるほど、私にメッセージを送ってきたのも、結局はあの後輩のためだったのか。 視線がぶつかった瞬間、蓮の足が一瞬止まった。 「芽依、お前もいたのか」 なぜか、彼はわざわざ説明を付け足した。 「茉優の実験がうまくいったから、お祝いに連れてきただけだ。他に意味はない。 本当は前に芽依が言ってた焼肉屋に行きたかったんだけど、ずっと返信がなかったから」 私は「うん」とだけ返した。 「あの店の名前、私も忘れちゃった」 あれは結菜と偶然見つけた、あまり人に知られていない名店だったはずだ。 あの時は食べている途中で待ちきれなくなって、蓮にメッセージを送った。今度一緒に来たい、と。 蓮の返信は早かった。 【焼肉なんて別に美味くもないだろ】 そのメッセージを受け取った瞬間、口の中から味が消えた。 唇を噛んで、最後にこう返した。 【そうだね】 茉優が近づいてきて、私たちのテーブルをちらりと見て言った。 「先輩、あのもつ鍋、すごく美味しそう!私たちも後で頼みましょうよ!」 蓮は笑って彼女を支えるように手を添えた。 「ああ」 「あのドリンクも良さそうですね。1杯だけ頼めば十分かな、一人じゃ飲みきれないし」 「うん、お前に任せる」 二人は話しながら、店の奥の別の席へと歩いていった。 結菜は腹を立てて箸を叩きつけ、小声で言った。 「もう見てられない。別れたばかりで新しい彼女連れてあんたの前をうろつくとか、あの人一体何考えてるの!? この店、蓮があんたに告白した場所でしょ。良心って言葉知らないわけ?」 私は牛肉を一口食べ、何も言わなかった。 ただ、ふと思い出していた。初めて茉優という名前を聞いたのは、彼女が電話をかけてきて、機械がどうしても起動しないと泣きじゃくっていた時だった。 あの時、私は蓮と映画を見ていた最中だった。 映画が半分終わったところで彼は行ってしまい、私はスクリーンに映る幽霊に一人で怯えることになった。 2回目は、彼女が夜中に蓮に電話をかけてきて、文献がどうしても見つからないから見に来てほしいと言った時だ。 あの時、彼は私とゲームでランクを上げている最中だったのに、二つ返事でAFKして行ってしまい、私は一人ゲームの中で取り残された。 3回目、4回目、5回目…… そのうち、蓮のスマホは24時間彼女のために繋がったままになっていた。 私たちが何をしていようと、彼女から電話が1本入れば、蓮はすぐに私を置いて出ていった。 そのせいで、蓮と何回喧嘩したか数え切れないくらいだ。 私は言った。 「茉優ともう少し距離を置けない?あんたはただの先輩でしょ、些細なことまで全部面倒見る必要ないじゃない」 彼は眉間を揉みながら言った。 「茉優は経験が浅いんだから、俺が手を貸すのは当然だろ。お前、なんでそんなに根にもつんだよ?」 「私が根にもってるですって?」 喧嘩は激しくなる一方で、頻度も増えていった。 最後の爆発は、たしか1ヶ月前のあれだった。 彼はこれからケーキを買って謝ると言った。だが、送られてきた写真に写っていたのは、私がアレルギーで食べられないマンゴーケーキだった…… 思考が、骨まで凍るような冷たさで断ち切られた。 はっと我に返ると、怯えた茉優の視線とぶつかった。 「ご、ごめんなさい、わざと飲み物をかけたわけじゃ……」 スカートは鮮やかな飲み物の色でぐちゃぐちゃに染まり、脚には氷のかけらがいくつも張り付いていた。 第4話 今日は生理痛の初日だった。 下腹部に鋭い痛みが走り、私は少しずつ体を折り曲げた。 「芽依、大丈夫か?」 蓮が大股で歩み寄ってきた。同時に、茉優も小さく声を上げた。 「痛い……」 彼女は手首を押さえていた。テーブルの角にぶつけたのか、赤くなっている。 蓮はすぐに茉優の元に戻り、彼女の手首を確認した。 蓮はちらりと私を見て、なんともない調子で言った。 「お前は自分でなんとかしといて。俺は茉優に湿布買いに行くから。 戻ったら家まで送る」 そう言って、彼は茉優を連れて店を出ていった。 下腹部の痛みのせいで私は食事を続ける気力がなくなり、丈治のところへ会計をしに行った。 結菜が支えに来てくれて、低い声で言った。 「芽依、もう帰ろう。服も濡れてるし、着替えないと」 私は首を振った。 「戻らない」 結菜は驚いた顔で私を見た。 「本気であの人を待つつもり?」 私は苦笑いして、スマホの航空券の情報を見せた。 「もう時間がないの」 店を出て、タクシーを呼んだ。 車を待つ間、結菜は自分の上着を私にかけながら、念を押すように言った。 「荷物、全部持った?スーツケースは?」 「持った。荷物は数日前にもう向こうへ送ってある」 結菜は頷いて、ふいに私を抱きしめた。目が少し赤くなっていた。 「向こうに行っても、ちゃんと自分を大事にしてね」 私は笑って頷いた。 スマホが震えた。蓮から写真とメッセージが届いていた。 写真には、私のサイズに合わせた新しいスカートと、鎮痛薬が写っていた。 下にはこんな一文が添えられていた。 【他に必要なものあったら、まとめて買って持っていくから】 私は返信しなかった。 ただ、写真の端に写り込んだ、茉優の手を握るもう片方の手を、じっと見つめていた。 そこには――私が編んであげたブレスレットが、なかった。 私は息を吐いて、文字を打った。 【いらないわ】 【蓮、私たち、別れよう】 2通目のメッセージを送信する前に、蓮から立て続けにメッセージが届いた。 【芽依、茉優が足を挫いた。先にタクシー呼んで病院連れていく】 【店で待ってて、すぐ戻るから】 【いらないとか言うなよ、後で腹が痛くなって辛いのはお前なんだから】 指先が一瞬止まった。返信はしなかった。 ふと、ネットで見たある言葉を思い出した。 騒ぎ立てて別れると言う人は、本当は離れる気なんてない。 本当に去ると決めた人は、別れの言葉すら口にする気力がない。 私も、そうだった。 蓮との間にあった「繋がり」は、もう1年も前に形を失っていた。 毎日欠かさず続いていたやり取りは、いつしか途絶え、履歴の画面にはただ冷え切った空白が広がっているだけ。 その証拠に、一緒にご飯を食べたり、何かを祝ったりする相手は、もう彼じゃなくなっていた。彼が何か買ってきてくれた時、真っ先に浮かぶのは代金を振り込むことだった。 私は彼に、「出ていく」と伝えなかった。 ただ連絡を絶ち、やり取りをやめて、彼の世界から静かに消えていった。 面と向かって別れを告げなくても、それでいいと思った。 タクシーが到着した。 私は後部座席に乗り込み、車は国際空港へ向かって走り出した。 車窓に映る自分の顔は、笑ってもいなければ、泣いてもいなかった。ただ少し疲れているだけだった。 私はようやく、この苦しい場所から離れることができた。 ようやく自分の力で、海外の大学のオファーを勝ち取った。 そして、ようやく……彼を必要としなくなった。 空港に着くと、もうチェックインが始まっていた。 人の流れに沿って進みながら、スマホの電源を切る直前、蓮からの最新の2通のメッセージが表示された。 【芽依、店の前に着いた】 【今どこにいる?】

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