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キンモクセイの下で、君を待っていた
離婚して5年目。私は、キンモクセイの木の下で、元夫の加賀谷修吾(かがや しゅうご)と再会した。 修吾はずいぶん痩せていた。けれど、身につけているものはどれも見るからに高価で、以前着ていたものの2倍以上はしそうだった。 「久しぶりだね。元気にしてた?」 (元気だよ。ちょっと退屈なくらい。修吾は?) 「会社は上場した。順調だよ。ただ、少し忙しい」 (そっか。それならよかった) 長い沈黙のあと、修吾はため息をついた。 「陽菜(ひな)。今年もキンモクセイが咲いたよ。いったい、どこへ行ったんだ」 透けた自分の身体を見つめながら、私はまた、彼の独り言に答えた。 (ここにいるよ――) けれど、もう修吾にこの声は届かない。
チャプター (1)
第1章
離婚して5年目。私は、キンモクセイの木の下で、元夫の加賀谷修吾(かがや しゅうご)と再会した。
修吾はずいぶん痩せていた。けれど、身につけているものはどれも見るからに高価で、以前着ていたものの2倍以上はしそうだった。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
(元気だよ。ちょっと退屈なくらい。修吾は?)
「会社は上場した。順調だよ。ただ、少し忙しい」
(そっか。それならよかった)
長い沈黙のあと、修吾はため息をついた。
「陽菜(ひな)。今年もキンモクセイが咲いたよ。いったい、どこへ行ったんだ」
透けた自分の身体を見つめながら、私はまた、彼の独り言に答えた。
(ここにいるよ――)
けれど、もう修吾にこの声は届かない。
第1話
ここに縛られて、もう4年以上になる。
遺体が火葬されたあと、私はここへ流れ着いた。
あの世から迎えに来た使いには、私のこの世への未練が強すぎて、連れていくことも、この場所から解放することもできないと言われた。だから、もう少し待て、と。
それから私は、来る日も来る日もこのキンモクセイの木の下にいた。修吾がここへやって来る、その日まで。
ここは私たちが出会った場所。そして、私たちはもう5年も会っていなかった。
初めて会ったあの日、修吾は身体に合わないスーツを着て、大学の研究会へ向かうところだった。
私はワンピース姿で、親友の江藤茜(えとう あかね)とキンモクセイの下で写真を撮っていた。
まさか男に絡まれるとは思わなかった。まして、彼が助けてくれるなんて。
修吾はその男を追い払った。全身擦り傷だらけだったのに、私と目が合うと顔を赤くした。
「困っている人を放っておけなかっただけだ。じゃあ、僕はこれで」
私はワンピースの裾をつまんで駆け寄り、彼の前に回り込んだ。「ねえ、連絡先くらい交換しない?今度、お礼にご飯をごちそうさせて」
修吾はしばらく照れくさそうに笑っていた。私が不思議そうに眉を上げると、彼はようやく我に返ったようにスマホを取り出し、LINEのQRコードを開いた。
彼があらためて研究会へ向かったときには、もう遅刻していた。サイズの合わない革靴で、足を引きずるように走っていった。
私はあの瞬間、彼に心を奪われた。それから少しずつ距離を縮めていった。
今の修吾は、身体にぴたりと合うイタリアンスタイルのスーツをまとっている。革靴も見るからに上質で、以前よりずっと落ち着いた大人に見えた。
私はこっそり、その手を取りたいと思った。けれど、横から声が割り込んだ。
「社長、そろそろ行かないと。奥様からまた連絡が来ますよ」
秘書はどこか焦っているようだった。
私は伸ばしかけた手を引っ込め、「奥様」という言葉を聞き逃さなかった。
この5年の間に、修吾は再婚していたんだ。
胸がきゅっと痛んだ。でも、すぐに気持ちを切り替えた。
こんな日のために、何度も何度もこうなる場面を想像して、心を慣らしてきた。平気。ちょっと不意を突かれただけ。
きっと優しくて、きれいな人なんだろうね。まあ、私に負けないくらいには。
ぼんやりしているうちに、私の魂は修吾に引っ張られ、そのまま一緒に車へ乗り込んだ。
道中、修吾はずっと気だるそうだった。目の奥には、隠しきれない疲れがにじんでいた。
(疲れてるなら、少し眠ったら?)
病室にいた頃、母もいつもそう言ってくれた。
今度は、私が修吾に言う番だ。
何かを感じ取ったみたいに、修吾はゆっくり目を閉じた。そして、本当に眠ってしまった。
唇がかすかに動いていた。私の名前を呼んでいるようだった。
「陽菜、陽菜」
(うん。ここにいるよ)
眠り込んだ修吾を見て、秘書は驚いたようだった。修吾の鞄の口からは、受け取ったばかりらしい睡眠障害の診断書が覗いていた。
【重度の睡眠障害と診断。投薬治療が必要なため、薬を処方している】
自宅の駐車スペースに着いても、秘書は修吾を起こすのが忍びなかったのか、そのまま眠らせていた。
私は唇を尖らせながら、隣で眠る修吾の顔をじっと見つめた。透けた指先で何度も眉や目の輪郭をなぞっていると、結婚して、毎朝彼の隣で目を覚ましていた頃に戻ったような気がした。
そのとき、突然、車のドアが開いた。
外に立つ女は、鋭い目で車内を見回した。まるで、見えないはずの私に「近づくな」と警告するみたいに。
その顔を見た瞬間、私は固まった。
茜。私の親友だ。
どうして、茜が?
茜は修吾を揺り起こした。声には不満がにじんでいた。
「こんな昼間から寝てたの?そんなに疲れてる?まさか、私に隠れて陽菜を探しに行ったんじゃないでしょうね?」
修吾は眉間をもむと、とっさに言い返した。
「あれだけ卑劣なことをして僕を裏切ったんだ。探しに行くわけがないだろう」
私はその場で凍りついた。
私が、卑劣だって。
そうだった。地縛霊として過ごすうちに、いちばん大事なことを忘れていた。
あのとき修吾を捨て、海外へ行くしかないほど追い詰めたのは、私だ。
誰よりも修吾を恋しく思う資格がないのは、私だった。
あの頃の修吾は、私の前にひざまずいて、何度も何度も私にすがった。
「陽菜、わざと僕を怒らせようとしてるんだろう?全部なかったことにしよう。もう一度、やり直さないか?」
それでも私は彼を突き放し、振り向いて別の男を抱きしめた。そして、一生でいちばん残酷な言葉をぶつけた。
「お金もないくせに、私に何ができるっていうの!そんなふうにすがりつくなんて、本当に卑しい!
私は離婚したいの!まだわからない?」
修吾は絶望した目で私を見つめた。しばらく口ごもった末、ようやく一言だけ絞り出した。
「わかった」
修吾が私を恨み、未練なんて残さないこと。それこそ私が望んだことだったはずなのに。
今さら、どうして後悔してるんだろう。
第2話
私は泣きそうな顔で、無理やり笑った。
幸い、魂に涙はない。
修吾について家へ入ると、私の身体は意思に反して、部屋に飾られた遺影の前へ吸い寄せられた。
遺影に写っていたのは、修吾の母、加賀谷静江(かがや しずえ)だった。まさか、彼女まで亡くなっていたなんて。
あの頃、治る見込みのない病気だと診断された私は、修吾に話す間もなかった。先に診断書を見つけたのは、静江だった。
耳をつんざくような甲高い声が、今もよみがえる。
「陽菜さん、修吾と離婚してちょうだい。うちには、あなたの治療費まで出す余裕なんてないの!」
あのときの私も、今みたいに泣きそうな顔で笑っていた。
結婚したばかりの頃は、「陽菜さんは、うちの福の神ね」と言ってくれたのに。
「治療にお金を出してもらうつもりはありません。自分のお金を使います。私はただ、最後まで修吾のそばにいたいんです……」
「それも駄目よ!修吾を妻に先立たれた男になんてできないわ。そんなの縁起が悪いし、不幸がつきまとうもの。この先ずっと『妻に不幸をもたらす男』だって言われるのよ!」
静江は昔から、こうした迷信を信じ込む人だった。私は何も言えず、その場に立ち尽くした。
病気を告げられたばかりで、どうしたらいいのかわからなかった。それに、修吾まで妙な噂を背負わされるのは嫌だった。彼の人生は、まだずっと先まで続くのだから。
私は震えながら、もう頷きかけていた。
それでも私が断るのを恐れたのか、静江はその場にしゃがみ込み、今度は弱い声で私にすがった。
「陽菜さんはきれいだし、ご実家だってうちよりずっと裕福でしょう?お願いだから、うちの修吾を自由にしてあげて。ね?
あの子は奨学金つきの留学が決まったばかりなの。あなたが病気だと知ったら、勉強に集中できると思う?
うちは貧しいし、私は女手ひとつで、力の限りあの子を育ててきたの……」
静江にそう聞かされて初めて、修吾の留学が決まった日と、私に診断が下った日が同じだったと知った。
静江は、もう長くない私に、修吾の未来を邪魔させたくなかったのだ。
私は彼女を恨まなかった。ほんの少しも。
ただ、人を雇って、浮気しているように見せかけたあの日、私はまともに顔を上げられず、ずっと泣いていた。
なんとも昼ドラじみた修羅場だった。
でも修吾。あなたを傷つけなければ、私たちは別々の道を歩けなかった。
あの日は、相手役を頼んだ男性まで手を震わせていた。
「やりきれないな……この芝居の金は受け取れないよ。
陽菜さん、治療がうまくいくことを祈ってる。いつか復縁したくなったら、僕に連絡して。きちんと事情を説明するから」
けれど結局、その連絡先を使うことはなかった。
あの日、修吾は私のために用意した誕生日ケーキを持っていた。
私の誕生日を祝い、そのついでに、私も一緒に留学先へ行けると伝えるつもりだった。私を置いてはいかない、と。
それなのに私は、ケーキを床に叩きつけ、見る影もなく潰した。
修吾は目を真っ赤にして、私と別の男がキスする姿を見つめていた。
そして修吾は離婚届に署名し、そのまま私の前から去った。
私が死ぬまで、修吾が帰国することはなかった。
そして今、帰ってきた修吾のそばには茜がいる。
茜は甘えるように、修吾の胸に寄りかかった。
「昔、陽菜が別の男と寝てるところを、私はこの目で見たの。ちゃんと忠告したのに、あなたは信じなかった。結婚して、自分の目で見るまで諦めなかったじゃない。
あなたが今年帰国してから、ずっと心配だった。まだ陽菜を諦められなくて、探しに戻ったんじゃないかって。
でも、あの子はプライドが高いから。もっとお金持ちを捕まえたなら、わざわざ帰ってこないでしょうけど」
茜の言葉に、私は目を見開いた。
焦った私は、修吾の目の前をぐるぐると飛び回った。
私がいつ、そんなことをしたっていうの?あの芝居だって、相手役とはキスしているように見せただけなのに!
茜は、私たちが結婚する前から、修吾にそんな嘘を吹き込んでいたんだ!
修吾は長いこと黙っていた。ようやく口を開いたとき、その声は少しかすれていた。
「あいつを探す理由なんてない。あいつはもう、僕には何の関係もない。思い出すだけで吐き気がする。
あいつのことを気にする暇があるなら、自分の身体をもっと大切にしろ」
頭から冷水を浴びせられたようだった。
茜はまだ疑っているようだったが、ようやくおとなしくなり、自分のお腹を撫でた。
「ならいいの。だって私、この子にパパの故郷を見せるために、帰ってきたんだから」
第3話
茜は妊娠していた。
ふくらんだお腹を見つめていると、身体の芯が冷えていくようだった。
修吾が幸せな家庭を築いたという現実なら、ちゃんと受け入れられると思っていた。
でも、その相手が茜だということだけは、どうしても受け入れられなかった。
しかも茜は、ありもしない話まででっち上げていた。
私は恨めしい気持ちで修吾のあとについて回った。
まさか、信じたんじゃないでしょうね?
(修吾!少しは頭を働かせてよ!私がそんなことするわけないでしょう?)
修吾には私の焦りなど聞こえない。仕事がひと段落すると、彼は高級SUVを走らせ、私が昔暮らしていた家へ向かった。
その家は、とうに誰も住まなくなっていた。
母は私の死と向き合えず、かといって貸し出す気にもなれず、ずっと空き家のままにしていた。室内には埃が分厚く積もっている。
修吾は古びた玄関の前に立ち、途方に暮れた子供のようだった。
人が通るたびに呼び止めては尋ねた。
「すみません、水瀬陽菜(みなせ ひな)を知りませんか?以前ここに住んでいたんです」
「さあねえ。年を取ると物忘れがひどくてね。この家なら、ずっと前から誰も住んでいないんじゃないかい」
何人にも聞いて回ったが、誰も覚えていないと言った。
もう5年だ。わざわざ私のことを覚えている人なんていない。まして、今このマンションに住んでいるのは年配の人ばかりだ。
手がかりを失った修吾は、管理会社を訪ね、母の今の電話番号が分からないか聞くしかなかった。前の番号はとっくにつながらなくなっていた。
電話番号を手に入れた修吾が、宝物でも見つけたような顔をするものだから、思わず吹き出してしまった。
修吾、やっぱり私のことが気になってるんじゃない。茜の前ではあんな強がりを言ってたくせに。
修吾は電話を強く握りしめ、ひどく緊張していた。やがて通話がつながると――
「お義母さ……おばさん、ご無沙汰しています。覚えていらっしゃいますか?加賀谷修吾です。陽菜に直接会って、話したいことがあるんです……」
受話器の向こうで、母は長いこと黙っていた。聞いている私まで緊張してくる。
私と母は、絶対に口を滑らせないと約束していた。
予想どおり、母は彼を拒んだ。
「陽菜は今、幸せに暮らしています。もうあの子に関わらないでください」
そう言うと、母は修吾の返事も待たずに電話を切った。
修吾の体はその場で固まった。しばらくして、ようやく車を出した。
彼は煙草をくわえていた。立ちのぼる煙の向こうに、晴れない苛立ちがにじんでいる。
私は不満げに彼をにらんだ。煙草の匂いは大嫌いだ。修吾は昔、1本も吸わなかった。それどころか、にやにやしながら「煙草を吸わない僕って、いい男だろ?」なんて言っていたものだ。
しばらく吸ったあと、修吾はふと手を止めた。煙草をもみ消し、窓を開けて空気を入れ替える。
車を止めると、後部座席に置いてあるものへ目を向けた。
そこでようやく、箱の中に上質なウィッグが入っていることに気づいた。
ウィッグは煙草の匂いがつきやすく、いったん染みつくと、洗ってもなかなか落ちない。
昔、一緒に買い物へ行くたび、私はこのことをしつこいほど修吾に愚痴っていた。
私はウィッグを見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くした。
入院していた半年間、治療のせいで髪はごっそり抜けていった。
そのうち、どれだけ嫌でも全部剃るしかなくなり、ウィッグをかぶるようになった。
病院で、修吾の親友である成田誠(なりた まこと)に偶然会ったことがある。
あのとき、私は病衣を着ていなかった。きれいに着飾って写真を撮り、SNSに載せるつもりだった。私が心変わりをして、楽しく暮らしていると修吾に信じてもらうために。
ところが、誠はわざと私にぶつかってきた。転びそうになり、ウィッグまで外れてしまった。
誠は一瞬目を見張ると、短く息を吐いた。
「へえ、優等生がずいぶんイメチェンしたな。
まさか、そのおっさんはこういう中性的な格好が好みなのか?男も女もいける口だったりしてな」
私が何も言わずにいると、誠はウィッグを踏みつけ、靴底で何度も踏みにじった。
怒るのも無理はない。修吾があまりにも不憫で、代わりに腹を立てていたのだ。
だから、母が駆けつけて警備員を呼ぼうとしたとき、私はその手をつかんで頼み込んだ。
「もういいよ、お母さん。私は平気だから。もういいの……」
誠が去ったあとも、私は泣かなかった。代わりに母が私を抱きしめ、いつまでも泣き続けた。
だから今、修吾はあのことを謝ろうとしているの?
もう、そんな必要ないのに。
修吾はウィッグを大切そうに箱へ戻した。
そして鼻を近づけ、煙草の匂いが移っていないか確かめた。
私は小さく笑った。
だが次の瞬間、彼は誰かに連絡し、母の現在の住所を調べさせた。
慌ててスマホを奪おうと手を伸ばしたけれど、やっぱり触れることはできない。
電話の相手は、少し怪しんでいるようだった。修吾は落ち着き払って説明した。
「来週、僕と茜は汐見市で改めて結婚式を挙げる。
もう吹っ切れたんだ。だから陽菜を僕と茜の式に呼びたい。それくらい構わないだろう?」
第4話
電話の相手は、舌打ちをしてから通話を切った。
胸の内で轟音が響き、何かが一気に崩れ落ちたようだった。
そういうことだったんだ。
そうだよね。修吾はもう私に未練がないと示さなければ、茜を安心させられない。
唇をゆがめ、私はその場にしゃがみ込んだ。
ふいに、雨が降ってきたような気がした。雫がぽつり、ぽつりと地面へ落ちる。
顔を上げて、ようやく気づいた。修吾が涙をぬぐっていた。その声は、ひどく押し殺されていた。
「陽菜、いったいどこに隠れてるんだ?ずっと捜してたんだぞ」
とっさに立ち上がり、涙をぬぐおうとした。けれど、またしても自分がただの魂にすぎないと思い知らされた。
私ならここにいるよ。そこまで必死に私を捜して、この結婚式にはどうしても私が必要なの?
ため息をついた。
母の住所を知った修吾は、迷うことなく車を走らせた。
私も諦めて助手席に座った。昔、彼が車で実家まで送ってくれたときのように。
あの頃の車は、今ほど高級でも大きくもなかった。それでも、当時の修吾が私のために精いっぱい背伸びして買ってくれた車だった。
修吾は毎日のように言っていた。
「陽菜、僕がもっと稼いで、もっといい暮らしをさせてあげるからな!
いつかもっといい車を買って、陽菜には今よりずっと快適に乗ってもらうからな」
私はいつも、わざと口答えした。
「いい車で思いきり走りたいのは、修吾のほうでしょ!」
すると彼は、へへっと笑う。
「だって、奥様専属の運転手役を思う存分楽しみたいからね」
その頃を思い出しながら、私は彼の耳元でそっと囁いた。
(修吾、本当にもっといい車に乗れるようになったんだね。嬉しいよ)
修吾がふいに耳を触ったので、私はびくっとして、慌てて座席に戻った。
やがて修吾は母の家へ着いた。
そこには、真新しい一軒家が建っていた。思い出の詰まった場所にいるのがつらくて、母はここを選んで引っ越したのだ。
思い出したくないと口では言っても、母の涙が止まることはなかった。
目の縁がちくちくと痛んだ。
母もずいぶん痩せていた。目元からはかつての穏やかさが消え、表情も険しくなっていた。
インターホンの映像に修吾が映ると、母は頑として会おうとしなかった。
それでも修吾は帰ろうとしない。
どうやら最初から、長期戦のつもりだったらしい。
修吾はテントまで持ち込み、母の家の前に丸2日居座った。母が会ってくれるまで動かないつもりだったのだ。
どうすることもできず、母は3日目にとうとう折れた。
家の中はしんと静まり返っていた。修吾は私の姿を探すように、何度も辺りを見回した。
「おばさん、陽菜はどこにいるんですか?」
母は冷たい表情で答えた。
「あの子は海外に住んでいて、帰ってきていません。言いたいことがあるなら、私にどうぞ」
修吾の唇がかすかに震えた。しばらくして、ようやく本題を切り出そうとした。
だが、彼が口を開くより先に、玄関のドアを激しく叩く音が家中に響いた。
ドアの向こうでは、茜が扉を叩きながら声を張り上げていた。
「修吾!もう2日も帰ってこないと思ったら、やっぱり陽菜を探しに来てたのね!
陽菜って、本当にたちが悪い女ね。離婚したくせにしつこくつきまとって、修吾がお金持ちになったから戻ってきたんでしょう!
恥知らずにもほどがある!」
胸がひやりとした。母が立ち上がり、玄関へ向かっていく。
ドアを開けるなり、母は茜の頬をひっぱたいた。
茜の目が真っ赤になった。
涙で視界がにじんでいたのか、茜は母を私と見間違えた。負けじと母に体当たりしてきた。
息を呑んだ。母を支えようと手を伸ばす。けれど、私の手はむなしくすり抜けた。
修吾はほんの一瞬ためらっただけで、母ではなく、倒れかけた茜を支えた。
母が目の前で床に倒れ、起き上がれなくなった。私はどうすることもできず、母のそばで焦るばかりだった。
(お母さん!大丈夫?)
ただでさえ、何年も腰を患っているのに……
(茜!昔、お母さんにあれだけ良くしてもらったこと、全部忘れたの?)
(修吾!昔、母が私たちの結婚を認めなかったとき、あなたはうちで一晩中、土下座し続けた。母を実の親のように大切にするって言ったじゃない。全部忘れたの?)
母のそばにかがみ込み、二人をにらみつけた。
悲鳴のような声は、私にしか聞こえない。
修吾は茜を自分の背後にしっかりとかばった。
「すみません、おばさん。茜もわざとではないんです。妊娠していて……」
それから、少しためらって続けた。
「僕はただ、来週の僕と茜の結婚式に、陽菜が出てくれるかどうかを聞きに来ただけです」
母は修吾を見つめた。その目の奥には深い怒りが渦巻いている。
母は修吾が差し出した手を振り払い、自力でどうにか体を起こした。
目には涙があふれている。見ているだけで胸が締めつけられた。
「……加賀谷さん、陽菜は行けません」
母は掠れた声で、それでも強く言い放った。
「もう一度言うわ。あの子は行けないの。
陽菜は……もう、この世にはいないのよ!」