第1章
【夫に隠し子がいたら、あなたは許せますか?】
その投稿を見つけたのは、ちょうど飛行機を降りたばかりのときだった。海外での仕事を予定より早く切り上げ、私は家へ帰るところだった。
なんとなくコメント欄を開き、自分のことを書き込んだ。
【私は再婚です。前の夫に三階から突き落とされたとき、今の夫が下で私を受け止めてくれました】
【そのせいで夫は背骨にひびが入り、19日間もICUにいました】
【それでも退院後、足を引きずりながら私の前にひざまずいて、「命を半分懸けて守った人だから、残りの半分も全部、君を愛するために使いたい」と言ってくれたんです】
【でも結婚して2年目、夫のスマホに見知らぬグループチャットがあるのを見つけました。メンバーは夫と一人の女、それから夫を「パパ」と呼ぶ男の子だけでした】
夫は泣きながら私にすがりつき、ひざまずいて謝った。子どもは私との結婚前にできた子だと。
今愛しているのは私だけだと。
家も車も貯金もすべて私に渡した。そして私の目の前で、その女の連絡先を全部削除した。
「今日から毎日、どこにいるか動画を送る。365日、一日だって欠かさない」
それから今日で3年目。夫は毎日、朝昼晩の三回、必ず動画を送ってきた。一度たりとも欠かしたことはなかった。
コメント欄には、【つらいことを乗り越えて、やっと幸せになれたんですね】【そんなに愛してくれる旦那さんなら、きっと大丈夫】そんな言葉が次々と並んだ。
私は小さく笑ってスマホを閉じると、キャリーケースを引いて自宅の前までやって来た。
玄関の鍵は開いていた。
靴を脱ごうとしてふと足元を見ると、玄関には大人用のスリッパが二足、その隣に子ども用の小さなスリッパが一足並んでいた。
リビングを覗くと、大きなお腹を抱えた女が、六歳くらいの男の子と一緒に積み木で遊んでいた。
物音に気づいた女は、こちらを振り返りもせず、そのままごく自然な口調で言った。
「あなた、遅かったわね。私もこの子もお腹ぺこぺこ。お肉、ちゃんと買ってきた?」
第1章
キャリーケースの車輪がフローリングを転がり、静かな部屋に音が響いた。
女が振り返った瞬間、視線がぶつかった。
女が着ていたのは、私が一番気に入っていたシルクのナイトウェアだった。
結婚一周年のとき、夫の石井拓海(いしい たくみ)がわざわざヨーロッパまで足を運び、私のためだけに仕立ててくれたものだ。裾には、私、高橋美雨(たかはし みう)のイニシャルまで刺繍されている。
そのナイトウェアが今、別の女の大きく膨らんだお腹を包んでいた。
カーペットに座っていた六歳の男の子は、大人たちの間に漂う異様な空気など気にも留めていない。緑色の腕輪を手にして、目の前の木製の積み木に何度も叩きつけていた。
カンッ、と乾いた音が響く。目が釘付けになった。息が止まる。
それは、お母さんの形見だ。亡くなった母が私に遺してくれた翡翠の腕輪。
傷つけるのが怖くて身につけることさえできず、ずっと寝室の金庫に大切にしまっていたものだった。
「やめて!」
私は駆け寄り、男の子の手首をつかんで腕輪を取り上げた。表面には、すでに白い傷が一本ついている。
男の子は突然おもちゃを奪われきょとんとした。次の瞬間、思いきり私の手首に噛みついた。
小さな歯が皮膚に食い込み、血がにじむ。痛みに耐えきれず、反射的に手を振り払った。
男の子は尻もちをつくようにカーペットへ倒れ、その途端、火がついたように泣き出した。
「何するの!」
女が悲鳴を上げる。そしてそのまま後ろへ倒れ込み、お腹を押さえて苦しそうに顔を歪めた。
「痛っ……お腹が……!なんで子どもに手を出すの!」
そのとき玄関のドアが開いた。
拓海が肉や野菜の入った買い物袋を提げて立っていた。額には汗が浮かんでいる。
部屋の中を見た瞬間、それまで浮かんでいた笑みが凍りついた。驚愕、そして、明らかな動揺。
私の手首からは、まだ血が滴っていた。震えながら拓海を見る。部屋にいたのは三年前、もう二度と連絡を取らないと、拓海が約束したはずの女だった。
拓海の手から買い物袋が落ちた。バサッと鈍い音がする。肉のパックから漏れた赤い汁が床に広がっていった。
かつて私を助けるために背骨を痛め、今も足を引きずって歩く男。
その男は今、私の横を素通りした。そして床に倒れている女のもとへ駆け寄り、真っ先にその大きなお腹を両手でかばった。
女を起こそうと立ち上がった拍子に、拓海の腕が私の肩にぶつかる。いや、ぶつかったなんてものじゃない。私は強く後ろへ押しのけられた。
腰が玄関の靴箱に激突する。鋭い痛みが走った。
「子ども相手に何やってるんだよ!」
拓海の怒鳴り声がリビングに響き渡った。女は拓海の胸にもたれ、泣きながら訴える。
「拓海……私、ちょっと荷物を取りにこの子を連れてきただけなの。そしたら奥さんが帰ってきた途端、いきなり……。お腹、すごく痛い……」
男の子も拓海の脚にしがみついた。
「パパ!あの女の人が僕のおもちゃ取った!」
私は靴箱にもたれたまま、その光景を見ていた。もう腰の痛みすら感じなかった。手首から流れた血が、指先を伝って一滴ずつ床へ落ちていく。
この家で、私だけがよそ者だった。
拓海がこちらを振り返った。私の血まみれの手首を見て、顔色が変わる。慌てて女から手を離し、足を引きずりながら私のもとへ近づいてきた。
「美雨……」
肉の赤い汁で汚れた手を伸ばし、私を抱きしめようとする。目には涙が浮かび、声まで震えていた。
「美雨、聞いてくれ。今日はあいつの家のお手伝いさんが休みで、仕方なく二人を半日だけここに連れてきただけなんだ……」
「触らないで!」
私は身を引き、その手を避けた。
母が遺してくれた翡翠の腕輪を、強く握りしめる。硬い石が手のひらに食い込み、骨まで痛むほどだった。
三年前、私は拓海の裏切りをすべて知ったつもりでいた。
けれど違った。あれは始まりにすぎなかったのだ。
拓海の手が宙で止まる。私の目を見つめたまま、突然その場に膝をついた。
三年前と同じように、私の脚にすがりつき、膝に顔を押しつける。肩が大きく震えていた。
「美雨、ごめん。本当に俺が悪かった。腹の子だって、ただの事故なんだ。あいつのことなんて愛してない。俺が愛してるのは美雨だけだ……」
背後から、女のすすり泣く声が聞こえた。
私は腰をかがめ、脚に絡みつく拓海の指を一本ずつ引き剥がした。そしてゆっくりと言った。
「拓海、あの人が着てるの、私のナイトウェアだし、履いてるのも、私のスリッパなのよ。半日だけ連れてきた、なんて本気で私が信じると思ってるの?」
第2章
拓海の表情が一瞬だけ固まった。
私が体勢を立て直すより早く、拓海は立ち上がった。抵抗する私を無視して、強引に抱き上げる。
馴染みのある匂いに、生臭い血のようなにおいが混じっていた。私は必死に拓海の胸を押した。
「下ろして!触らないで。気持ち悪い!」
「暴れるな。先に傷の手当てをする」
私が胸を叩いても、拓海はまるで気にしなかった。足を引きずりながら私を抱えているのに、その腕だけは逃がすまいと強く私を抱き締めている。
拓海は、すでにあの女に占領されていた主寝室には向かわなかった。私をそのまま客室へ運ぶと、後ろ手にドアを閉めた。
救急箱を開く。
消毒液を含ませた綿棒が手首の傷に触れた。染みる痛みに思わず肩がすくむ。
すると拓海は突然、私の手首をつかんだ。そのまま背を向け、シャツを乱暴にまくり上げる。背骨に沿って長く残る傷跡が目の前に現れた。
「美雨。触ってみろ」
拓海は私の手をつかみ、無理やりその傷跡へ押し当てた。
その瞬間、5年前に三階から落ちたときの浮遊感が一気によみがえった。
拓海が振り返る。真っ赤になった目で私を見つめていた。
「俺は命を半分削って、お前を助けたんだ。今だって、この身体には美雨を守るために壊した骨の跡が残ってる。そんな俺が、美雨を愛してないわけないだろ?
向こうに二人目ができただけなんだ。自分の子どもを路頭に迷わせるわけにはいかないだろ。俺があいつに渡してるのは金だけだ。愛情なんかない。それで十分じゃないか。どうして少しくらい受け入れてくれないんだよ」
赤く充血した拓海の目を見ながら、私はあまりの身勝手さに言葉を失った。
「受け入れる……?」
吐き気がした。私はポケットからスマホを取り出した。「夫の毎日の報告」と名前をつけたフォルダを開き、一番新しい動画を再生する。
画面の中では、拓海が清潔なバスローブを着ていた。背後に映っているのは七十万円もしたヨーロッパ製のベッド。
「美雨、今日もちゃんと薬飲んだよ。会いたいな」
私はスマホの画面を拓海へ向けた。動画の撮影時刻は昨夜の十時。
「拓海。毎日、私のベッドに座って、会いたいって動画を撮って、そのあとこの家であの人を抱いて寝てたんでしょ?」
私は拓海の目をまっすぐ見た。声は自分でも驚くほど静かだった。
「動画は全部で2190本。私が買った家の中で、3年間ずっと、愛妻家のふりをしてたんだね」
拓海の顔から血の気が引いた。唇を震わせながら、私のスマホを奪おうと手を伸ばす。
「違う、美雨。あれはただ、あいつを落ち着かせるためで……」
そのとき、ドアの向こうからノックの音がした。続いて女の苦しそうな声が聞こえる。
「拓海……本当にお腹が痛いの……血も出てるみたい……お願い、ちょっと来て……」
スマホへ伸ばしかけていた拓海の手が止まった。
背中が強張る。視線が私とドアの間を何度も行き来した。
しばらくして拓海は手を下ろした。
「美雨。薬はここに置いておくから、少し落ち着いてくれ」
そう言うと腰をかがめ、私の額にキスを落とした。
そして立ち上がり、足早にドアへ向かう。拓海はドアが開くとすぐに閉めた。
外から拓海が女の容体を心配する声が聞こえる。女の泣き声。それから男の子が甘えた声で「パパ、抱っこ」とせがむ声。
カチャ。
小さな音が響いて私は顔を上げた。拓海が外から客室の鍵をかけたのだ。
ドア越しに声が聞こえる。
「いい子で待っててくれ。あいつのことを片づけたら、俺たち、またやり直そう」
その後、足音と騒がしい声は次第に遠ざかっていった。やがて玄関のドアが閉まる。
家の中は完全に静まり返った。
私は手首に残った歯形を見た。傷口からまだ血がにじんでいる。
ゆっくりとスマホを取り出し、一人の男に電話をかけた。
「先輩」
電話がつながる。向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた静かな息遣いだった。
「美雨」
西村颯真(にしむら そうま)の声は、大学時代と変わらない。
聞いているだけで、不思議と気持ちが落ち着く声だった。
「予定より早く帰ってきたんだな?」
「うん」
私は客室の隅へ目を向けた。そこには、いつの間にか追いやられた私物が、きれいにまとめて積まれていた。
「先輩、調べてほしいことがあるの。前に拓海が私に名義を移した不動産と、それから預金口座、今どうなってるのか、正確な資産状況を全部調べて」
第3章
三日目の午後、颯真から送られてきた資料が私のメールに届いた。
私は客室の机に座り、三時間もの間、画面に並ぶ入出金履歴と借入記録を見続けていた。
ひとつひとつの金の流れが、この三年間の私の愚かさを嘲笑っているようだった。
あの日、拓海が私の目の前で差し出した銀行口座。そこに入っていた金は、その翌日には「資産運用」の名目で次々と海外口座へ移されていた。
私名義にしたと言っていた不動産も、複数の契約を巧妙に組み合わせて担保に入れられ、すでに現金化されていた。
では、その金はどこへ消えたのか。
あの女のために、都内の人気学区に高級マンションを買っていた。
それだけじゃない。今、私がいるこの家さえ、半月ほど前、危うく私の知らないところで名義変更の手続きが完了するところだった。
「美雨のためなら命さえ惜しくない」そう言っていた男にとって、私の愛も、私の財産も、すべては自分の子どもたちを養うための餌にすぎなかったのだ。
そのとき、玄関の鍵が開く音がした。
この時間、拓海は会社で会議のはずだった。
やがてドアが開き、床を叩くヒールの音が近づいてくる。入ってきたのはあの女だった。
大きなお腹を抱えながら、手にした合鍵を見せつけるように揺らしている。
「かわいそう。自分で買った家なのに、その中の客室に閉じ込められるなんて」
私の机の前まで来ると、青ざめた私の顔を眺め、満足そうに目を細めた。
私はパソコンを閉じた。
「ここは私の家よ。出ていって」
女は吹き出すように笑った。勝手に椅子を引いて座り、お腹を撫でる。
「拓海は優しいから言えないこともあるの。あなたがショックを受けると思って、黙ってるみたいだけど。いつまでも勘違いしてるのもかわいそうだから、教えてあげる」
ブランドバッグから数枚のコピー用紙を取り出し、机の上に投げる。銀行の取引明細だった。
「五年前、元旦那さんに三階から突き落とされたとき、どうして拓海が、偶然あの場所にいたと思う?」
心臓を強くつかまれたような感覚がした。私は明細に目を落とした。
日付は、私が転落したその前日。振込人は石井拓海。そして受取人は、ギャンブルに溺れていた私の元夫だった。
女の声が耳の奥で響く。
「拓海は最初から、あなたの家の資産が目当てだったの。元旦那さんに一千万円払って、お芝居をしてもらったのよ。あなたを突き落として、拓海が助ける、それだけの予定だった。
ただ、思ったより建物が低かったのと、受け止める位置を間違えたせいで、本当に背骨を痛めちゃったみたいだけど。半分命を懸けたふりをして、あなたを完全に信用させた。そうすれば、あなたのお金が手に入るものね。そのお金で、私と子どもたちを養う。
分かった?あなたは、ただのATMだったの」
胃の中がひっくり返るようだった。全身の血が、一気に頭へ逆流したような感覚に襲われる。
今まで信じていたものが、音を立てて崩れていく。
あの日の事故も、あの傷跡も、プロポーズも、全部最初から仕組まれていた。
喉の奥に鉄のような味が広がった。私は慌てて口元を押さえた。次の瞬間、鮮血を吐き出した。
血が机の上に飛び散り、取引明細を赤く染める。
「ちょっと!」
女は露骨に顔をしかめ、一歩後ずさった。鼻と口を手で覆う。
ちょうどそのとき、玄関から物音がした。忘れ物を取りに、拓海が戻ってきたのだ。
部屋へ入ってきた拓海の目に飛び込んだのは、口元を血で染め、今にも倒れそうな私だった。顔色が変わる。
こちらへ駆け寄ろうとしたその瞬間、玄関の向こうから、男の子が母親を追いかけて走ってきた。
拓海の足が止まる。そして私ではなく、男の子のほうへ振り返った。大きな手で、その子の目を覆う。
「外で遊んでろ。見るな」
その声は、不思議なくらい落ち着いていた。男の子の前に立ちはだかり、もう私のほうを見ようともしない。
「子どもにこんなもの見せるなよ」
身体の芯まで冷えていく。私は椅子を押しのけ、震える手で引き出しの一番奥を探った。
昨夜、一睡もせずに書き上げた離婚届と離婚協議書。
それをつかむと、拓海の背中へ思いきり叩きつけた。
「署名して」
もう怒鳴る力さえ残っていなかった。ただ疲れていた。
「荷物をまとめて、私の家から出ていって」
紙が床一面に散らばる。
拓海は男の子から手を離し、女に連れていくよう促した。
そして、ゆっくりとこちらを振り返った。さっきまでの優しげな表情は、跡形もなく消えていた。目に浮かんでいるのは、剥き出しの怒りだった。
足を引きずりながら近づいてくる。床に落ちた離婚協議書を拾い上げると、一枚ずつ、ゆっくりと破り始めた。
細かく裂かれた紙片が、私の吐いた血の上へ落ちていく。
拓海は突然、私の顎をつかんだ。強引に顔を上げさせる。そして、自分の脚を見るよう迫った。
低く、冷たい声が響く。
「俺を捨てるつもりか?俺はお前のために、こんな身体になったんだぞ。お前の命だって、俺が助けた。
離婚したいならしてやるよ。お前が死ぬか、俺が死ぬか、それ以外にお前が俺から離れる方法なんてない。
美雨。お前は一生、俺のそばにいるんだ」
第4章
あの日を境に、私は完全に自由を奪われた。
拓海は私のスマホやパソコンをすべて取り上げ、家のネット回線まで切った。
それだけじゃない。私が飲んでいた抗うつ薬も、動悸や息苦しさを抑える薬も、勝手にやめさせた。
私は客室に閉じ込められた。拓海は毎日決まった時間になると食事を運んできて、何事もなかったように笑いながら私の口元へ差し出した。
一方、リビングから聞こえてくる物音は、日に日に耳障りになっていった。
私はドアのそばにもたれ、冷めた目でその光景を眺めていた。あの女が業者たちにあれこれ指示を出し、家の中を好き勝手に変えていく。
その左手には、私の結婚指輪がはめられていた。拓海が「わざわざ南アフリカまで行って選んだんだ」と自慢していたダイヤが、女の指で眩しく光っている。
リビングの中央に飾られていた大きな結婚写真も、壁から外された。
女はハサミを持つと、写真に写る私の顔だけを丁寧に切り取っていく。そして細かくなった紙片を、そのままゴミ箱へ捨てた。
主寝室では工事が始まった。壁紙は新しく張り替えられ、ベビーベッドまで運び込まれた。
私の服、化粧品、両親が遺してくれた数冊の本まで、何もかもゴミ袋に詰め込まれ、部屋の外へ放り出された。
拓海はそのすぐそばにいた。止めることもなく、ただ黙って、あの女がこの家から私の存在を一つずつ消していくのを見ていた。
なのに時折こちらを振り返ると、ガラス越しに私へ微笑みかける。
私はもう怒鳴らなかった。食事を拒むこともしなかった。
ただベッドに横になり、天井を見つめながら、頭の中で十日間を数えていた。
そして十日目。あの女が、胎児の精密超音波検査を受けに病院へ行く日が来た。
その日だけは珍しく、拓海は客室のドアに鍵をかけなかった。玄関で靴を履きながら、こちらを振り返る。
「美雨。今日、検査が終わったら、あのマンションを正式にあいつの名義にする。子どもが生まれたら、ちゃんとあいつを遠ざける。だからもうこんなふうに争うのはやめよう。な?」
ベッドの端に座ったまま、私はその優しげな顔を見つめた。そして小さく頷いた。
「うん」
拓海は心底ほっとしたように笑った。そのまま女の身体を支えながら、玄関を出ていく。
やがて鍵の閉まる音がした。私は静かに立ち上がった。
赤ちゃん部屋へと変えられた主寝室へ向かう。ベビーベッドの布団をめくった。
その下から、三本の消毒用アルコールを取り出す。
ここしばらく、私は手首の傷が化膿したふりをして、拓海から少しずつ手に入れていた。
私は部屋の中を見回した。そしてアルコールを、カーペットやカーテン、クローゼットに撒いていった。
刺激の強いにおいが、家中に広がっていく。最後にマッチへ火をつけた。
小さな炎は瞬く間に燃え広がり、周囲を呑み込んでいった。
私は炎から少し離れた場所に立ち、首から下げていたネックレスを外した。チェーンには、ペンダントトップが通してある。
その小さなペンダントの中には、一枚の写真が入っていた。ICUで拓海が意識を取り戻した日、涙を流しながら撮った写真だった。
あの頃の私は、その写真を指さして笑いながら言ったことがある。これがある限り、何をされても拓海を嫌いになんてならない。
私にとって、それは彼を永遠に許すためのお守りだった。私は何も言わず、写真を炎の中へ落とした。
火が写真の端を巻き込み、黒く焦がしていく。やがてネックレスも灰の中へ落ちた。あれほど輝いていた銀色のチェーンは、炎と煤に包まれ、その光を失っていった。
二時間後、拓海は病院の売店で、女のために水を買っていた。そのとき、スマホがけたたましく震え始めた。
電話に出ると、管理会社の担当者が叫ぶ。
「石井さん!ご自宅から火が出ています!今、消防が消火活動をしています!」
拓海は車に飛び乗った。途中で何度も信号を無視し、必死になって家へ戻った頃には、ようやく火が消し止められたところだった。
二人で暮らした家は見る影もなかった。黒く焼け焦げ、ほとんど廃墟になっていた。
拓海は足を引きずりながら、消防隊員の制止も振り切って中へ飛び込んだ。真っ先に向かったのは、私を閉じ込めていた客室だった。
そしてベッドの上にあったのは、身体を丸めるように横たわった、一体の死体。
壁には、口紅と血を混ぜた赤い文字が残されていた。大きくこう書かれている。
「半分の命返すね。これでもう借りはない」