もう彼の助手席には座らない

プロモーションを読み込み中...

もう彼の助手席には座らない

GoodNovel 完結

荻村文昭(おぎむら ふみあき)と付き合って4年。彼の車の助手席には、たくさんの人が座った。 母親、従妹、女性の同僚、それから「仲のいい友達」の白岩エレン(しろいわ えれん)。 なのに、私だけは座ったことがない。 そのたびに聞くと、彼は決まってこう言った。 「後ろに座るのと何が違うんだ?そんなの、大したことじゃないだろ」 私は数えていた。「大したことじゃない」という言葉を、彼は私に76回も口にしていた。 私の誕生日なんて、大したことじゃない。 私の卒業式なんて、大したことじゃない。 彼の隣に座りたいという私の願いも、大したことじゃない。 けれど昨日、エレンが別の男の車の助手席に座って帰った。 そのとき、文昭は初めて私に怒鳴った。 「もう少し早く降りられなかったのか?明澄を待ってたせいで、エレンを迎えに行くっていうあんな大事な用事に遅れたんだぞ!」 焦りで赤くなった彼の目を見つめながら、私は思った。 彼は、助手席がどういう意味を持つのか、ちゃんと分かっていた。 ただ、相手が私になると、「大したことじゃない」に変わるだけだった。 私は車のキーをリビングのローテーブルに置いた。 「じゃあ、もう座らない。前も後ろも、もう座らない」

チャプター (1)

第1章

荻村文昭(おぎむら ふみあき)と付き合って4年。彼の車の助手席には、たくさんの人が座った。 母親、従妹、女性の同僚、それから「仲のいい友達」の白岩エレン(しろいわ えれん)。 なのに、私だけは座ったことがない。 そのたびに聞くと、彼は決まってこう言った。 「後ろに座るのと何が違うんだ?そんなの、大したことじゃないだろ」 私は数えていた。「大したことじゃない」という言葉を、彼は私に76回も口にしていた。 私の誕生日なんて、大したことじゃない。 私の卒業式なんて、大したことじゃない。 彼の隣に座りたいという私の願いも、大したことじゃない。 けれど昨日、エレンが別の男の車の助手席に座って帰った。 そのとき、文昭は初めて私に怒鳴った。 「もう少し早く降りられなかったのか?明澄を待ってたせいで、エレンを迎えに行くっていうあんな大事な用事に遅れたんだぞ!」 焦りで赤くなった彼の目を見つめながら、私は思った。 彼は、助手席がどういう意味を持つのか、ちゃんと分かっていた。 ただ、相手が私になると、「大したことじゃない」に変わるだけだった。 私は車のキーをリビングのローテーブルに置いた。 「じゃあ、もう座らない。前も後ろも、もう座らない」 第1話 ローテーブルの上のキーを見た文昭は、まずは小さく笑った。 その笑いはかすかで、いつもの我慢がとうとう限界に達したような響きを帯びている。 「玉浦明澄(たまうら あすみ)、まだそんな芝居を続けるのか?たかが座席のことだろ。4年も、同じことで何度も騒ぐんだな」 私は食卓の脇に立ったまま、指先にはさっきまで鍋から立ちのぼっていた湯気の温もりが残っていた。 「今日は4年目の記念日だよ。今夜は白岩さんから電話がかかってきても出ないって、約束したでしょ」 「外で嫌な目に遭ったんだ。俺が迎えに行って何が悪い?」 文昭はキーを手に取った。 「明澄、いつもそんなに自分を可哀想だと思うな。誰も明澄のことを雑に扱ってなんかいない」 「じゃあ、私の誕生日に、文昭が彼女の引っ越しを手伝いに行ったのも、私を雑に扱ったわけじゃないの?」 彼の眉間にしわが寄った。 「あの日は大したことじゃない」 77回目。 私は彼を見つめ、それ以上言い返す気さえなくなった。 私が何も言い返さないのが、よほど気に入らなかったのだろう。文昭はさらに冷たい声で言った。 「今夜は一人で反省しろ。自分の間違いに気づいたら、そのときまた結婚の話をする」 そう言い残して、彼は出ていった。 扉が乱暴に閉められると、玄関の棚が小さく揺れた。 一番上に置いてあった木枠の写真立てがタイルの床に落ち、ガラスにひびが入った。二人で撮った写真が、真ん中から破れそうになっている。 4年前に撮った写真だ。 あの日、文昭が初めて私を会社の忘年会に連れていった。エレンは酔っ払って、彼の助手席に座ったまま、車の中でずっと眠っていた。 私は後部座席で彼の上着を抱きしめ、自分に言い聞かせていた。 友達だって、面倒を見てあげなきゃいけない。 私はしゃがみ込み、割れたガラスには手を触れなかった。 ベランダからほうきを持ってきて、破片も、木枠も、無理に笑っているあの日の写真も、全部まとめてゴミ箱へ掃き入れた。 ダイニングの明かりは、まだついたままだ。 食卓には何品かのおかずと、汁物が並んでいる。どれも文昭の好物だ。 私は土鍋を持ち上げ、台所へ向かった。 汁を流すと、何個かの具がシンクの縁にカサカサとぶつかり、音を立てた。 ポケットの中でスマホが一度だけ光った。 文昭からボイスメッセージが届いた。 「エレンが、明澄の作ったカレーを食べたいってさ。詰めておいてくれ。俺があとで取りに戻るから。もう拗ねる顔をするな」 私は蛇口を閉め、空になった鍋をコンロに戻した。 【捨てた】 メッセージを送ってから10秒もしないうちに、電話がかかってきた。 私は出た。 文昭の声は低く沈んだ調子だ。 「明澄、もういい加減にしろ」 「あのカレーは私が作ったのよ」 「明澄は俺の婚約者だろ。友達にカレーを少し分けてあげるくらい、そんなに嫌なのか?」 彼は少し間を置いた。怒りを押し殺しているような声だ。 「エレンは今日、嫌な目に遭ったんだぞ。それなのに、まだあいつと張り合うなんて、明澄って本当に器が小さいな」 4年間ずっと譲り続けてきたものが、最後には「器が小さい」という一言に変わった。 私はもう、言い返すことさえ馬鹿らしく思えた。 電話を切ったあと、不動産会社の担当者に電話をかけた。 購入するはずだった家は、会社の近くに選んだものだった。 1200万円の手付金には、5年間働いて貯めた私の預金を使った。 担当は電話に出ると、親しげな声で言った。 「玉浦様、荻村様から、明日モデルルームを見に来ると伺っています。時間を変えられますか?」 「もう見ません。手付金を返してください。違約金は契約どおり差し引いてください」 「荻村様はご存じですか?」 「お金を払ったのは私です」 自分の声が、驚くほど冷静なのが分かった。 「結婚するための新居は、もう買いません。結婚もしません」 電話を切ったあと、私は玄関の棚を探った。 文昭の車で使われていた後部座席クッション、酔い止めパッチ、車用の香り袋。そして小さな革の小物入れ。 その小物入れは、私が助手席の収納に置こうと思って買ったものだった。 文昭はそれを見つけたとき、ただ一言、「車の中をごちゃごちゃさせるな」と言った。 その後、私はエレンのSNSで、その収納いっぱいに口紅やヘアピン、お菓子が詰め込まれているのを見た。 私は棚から出したものを一つずつ、ゴミ箱に入れていった。 第2話 スマホがまた光った。 エレンがSNSに投稿した。 【誰かさんが真夜中に私のためにクッションとお菓子を買ってきてくれたの。これからは、この席には他の人を座らせないんだって。子供みたいで笑っちゃうよね】 コメント欄は大盛り上がりだ。 その中で一人がこう書き込んだ。 【文昭の婚約者に見られたらどうしよう?たぶん嫉妬しちゃうぞ】 エレンは返した。 【玉浦さんは分かってくれてるもの。私と張り合ったりなんてしないよ】 私は「いいね」を押した。 数秒後、文昭から電話がかかってきた。 出ると、ひどく機嫌の悪い声が飛んできた。 「何のつもりでいいねなんか押した?」 「白岩さんの言うとおりだよ」 「明澄、嫌味を言って何のつもりだ?」 彼は低い声で叱りつけた。 「エレンはまだ若いんだ。明澄はそんな相手に拗ねてるのか?さっきだって、『玉浦さんは心の狭い人じゃない』って、エレンが明澄のことをかばってたんだぞ」 私はソファに座り、何もなくなった食卓を眺めた。 「私が出血性胃潰瘍になったあの夜、文昭の車に乗ってたのは白岩さんだったよね」 電話の向こうが一瞬、静まり返った。 私は続けた。 「助手席に大事な取引先の人が乗ってるから、私を病院まで送るわけにはいかないって言った」 文昭の声が冷たくなった。 「過ぎたことだ。今さらそんなこと言って、何の意味がある?」 「あるよ」 私の声は淡々としている。 「私がこの4年間、どれだけ馬鹿だったのか確かめたいの」 彼は鼻で笑った。 「今のほうがよっぽど馬鹿だろ。結婚をダシにして八つ当たりして、最後に恥をかくのは明澄だ」 「招待状、まだ全部出してないよね」 「だから?」 私は引き出しを開け、金箔を押した招待状の束を取り出した。 3晩かけて書いたものだった。ペンを握り続けて、指にはたこまでできていた。 文昭の名前を、一枚一枚、丁寧に、謹んで書いた。 今になって見ると、まるで笑い話みたいだ。 「だから、全部なかったことにする」 文昭は、とうとう堪え切れなくなったようだ。 「そんなことできると思ってるのか?」 私は電話を切り、結婚式の担当プランナーに電話をかけた。 相手はまだ打ち合わせの話だと思っている。 「玉浦様、荻村様のほうから、グルームズマンの名簿をずっといただけていないんです。催促しておきましょうか?」 「結婚式は取りやめます」 「内金は返ってきませんし、会場費も差し引かれますが……」 「構いません」 「もしかして荻村様と喧嘩されたんですか?結婚式は両家にも関わることですし、もう一度お話し合いになったほうが……」 私は一番上に置いてあった招待状を、ビリッと破った。 「大丈夫です。新郎は、もういなくなりましたから」 プランナーは言葉を失った。 「……ご愁傷さま」 私は短く返事をした。 紙を破る音が、いつまでもリビングに響いている。 11時半になって、ようやく文昭が帰ってきた。 靴も脱がず、手にしたビニール袋をローテーブルに放り投げた。 中には、ガソリンスタンドでもらった車用の飾りが一つ入っている。 安っぽい香料の匂いが、むっと広がった。 彼はソファの前に立った。 「これあげるから、もういいだろ。いつも俺の車には明澄の物が何もないって言ってただろ?これを後ろに掛けてやる。明日からは明澄がもっと楽しく車に乗れるじゃない?」 私はその飾りを見つめた。 「後ろ?」 「いい加減にしろ」 文昭は眉をひそめた。 「エレンは助手席に座るのに慣れてるんだ。あいつは車酔いするけど、明澄はしないだろ」 「するよ」 「それくらい、大したことない」 78回目。 私は飾りを拾い上げ、そのままゴミ箱へ投げ入れた。 文昭の顔色が変わった。 「そこまでやるのか?」 「文昭の車には、もう乗らない」 「明日は会社に行くだろ」 彼は腰をかがめ、私に顔を近づけると、声を潜めて言った。 「今年の社員海外研修の枠がもうすぐ発表される。私情を会社に持ち込むな」 私は顔を上げた。 「キャリアを持ち出して私を押さえつけるの?」 「忠告してるだけだ」 彼は体を起こした。 「いい大人が、何かあるたびに別れるなんて言って脅すな」 そう言い残して、彼は浴室へ入っていった。 水の流れる音が聞こえ始めると、私はタブレットを開き、ドライブレコーダーのクラウドとの連携を外そうとした。 深夜に飲んで帰ることの多い彼に何かあったらと心配して、私が自分で取り付けたものだ。 連携を外す前に、システムに昨夜の車内録音データが表示された。 私はそれを再生した。 エレンの柔らかな声が聞こえてきた。 「文昭、玉浦さんが本当に怒ってるのかな?」 文昭はふざけた笑い声をこぼした。 「あいつは俺なしじゃいられない。騒ぎ疲れたら、自分から戻ってくるさ」 エレンが聞いた。 「じゃあ、助手席は?」 文昭は答えた。 「エレンだけが座れる」 浴室の扉が開いた。 タオルを手にした文昭は、扉のところに立っている。その顔から、さっきまでの気の抜けた表情が一瞬で消えた。 私は音量を上げた。 さっきの音声が、もう一度響いた。 文昭が駆け寄り、タブレットをひったくってソファに叩きつけた。 「俺を監視してたのか?」 私は彼を見つめた。 「あれは本音だって、認めるんだね?」 彼の目に一瞬、動揺が走った。けれど次の瞬間には、また怒りに変わった。 「友達同士の冗談だろ。それを持ち出して俺を問い詰めるのか?今の明澄といると、本当に息が詰まる」 私は立ち上がり、寝室へ向かった。 背中から、彼の冷たい笑い声が飛んできた。 「出ていけるもんなら出ていけ。どうせ明日には会社でまた被害者ぶるんだろ」 私は足を止め、振り返らずに言った。 「分かった」 部屋の扉を閉める前に、彼がローテーブルを蹴る音が聞こえた。 第3話 翌朝、会社の定例会議。 会議室のプロジェクターが明るく点いていて、文昭がスクリーンの前に立っている。 私が入っていくと、その場にいる全員が一斉に私を見た。 エレンは一番前の席に座っていて、目元は赤く、机の上にはミルクティーが置かれている。 文昭は彼女のストローを刺してやった。その手つきはあまりにも自然だ。 私はパソコンを置き、社員実績評価表をスクリーンに映した。 この3年間、会社の最大手のクライアントはすべて私が担当してきた。 海外研修の選考基準には、主要な仕事での実績が最優先だと明記されている。 文昭は咳払いを一つした。 「今年シンガポール研修に行くのは、営業部の白岩エレンだ」 会議室にたちまち小さなどよめきが広がった。 同僚の永野紗奈(ながの さな)が声を押し殺して呟いた。 「玉浦さんじゃないですか?」 私は立ち上がった。 「荻村社長、理由を教えてください」 文昭は私を見た。その目には、警告の色が浮かんでいる。 「会社が見ているのは、総合的な伸びしろだ。エレンは若い。外に出て、もっといろいろ見てくる必要がある」 「私の実績は、彼女の11倍です」 「明澄はもう企画部長だろ」 文昭の声が冷たくなった。 「自分ばかり考えるな。新人にも少しくらいチャンスをやってもいいんじゃないか」 79回目。 もう「大したことじゃない」と言うことすら面倒になったらしい。 エレンが立ち上がり、そっと文昭の袖をつまんだ。 「社長、もういいです。玉浦さん、すごく気にしているみたいですよ……みんなに誤解されたくありません」 文昭は彼女の手の甲を軽く叩いた。 「何も心配しなくていい。準備しておけ」 その瞬間、会議室中が静まり返った。 私は一枚の資料をスクリーンに映した。 「先月、白岩さんがH社との契約書の原本をなくしたせいで、会社は契約の結び直しが遅れました。1億6千万円程度の違約金が発生する恐れがあります。こんな社員が、どうして会社の貴重な海外研修の枠を得られるんですか?」 エレンの顔が青ざめた。 「玉浦さん……私、もう謝りましたよ」 文昭が低い声で言った。 「その件は俺が対応した」 「その対応というのは、私の部下に責任を押しつけたということですか?それとも、会社のお金で彼女の尻拭いをしたということですか?」 私は彼を見た。 「社長、公私の区別がついていないのは私ではありません」 彼は大股で私の前まで歩いてきて、声を落とした。 「俺を追い込むな」 「もう録音してあります」 彼の顔色が一変した。 私はスマホを持ち上げた。画面では録音がまだ続いている。 文昭は私をじっと見つめ、やがて冷笑した。 「こんなもので俺を脅せると思ってるのか?」 「思っていません」 私はパソコンを操作し、新しいファイルを作った。 5分後、プリンターから退職届が印刷されて出てきた。 私はその紙を文昭の前に置いた。 「ご確認ください」 文昭はタイトルを見て、ようやく目の色を変えた。 エレンが小さな声で言った。 「玉浦さん、そんなに急いで決めないでください。文昭だって会社のためを思って……」 私は振り返って彼女を見た。 「見放されないように頑張ってね」 彼女の顔が強張った。 文昭は退職届を手の中で握りしめた。 「辞めることで俺を脅して、決めたことを変えさせるつもりか?」 「違います」 私の声は冷静だ。 「研修枠は白岩さんにあげればいいんです。企画部長の座も。私はもう、あなたたちの芝居には付き合いません」 文昭は冷たい笑みを浮かべた。 「ここを出て、誰が明澄を認めると思うか?クライアントが認めてるのは荻村グループの企画部であって、明澄じゃない」 私はパソコンを閉じた。 「H社、A社、そしてL社の主要案件については、私が担当した内容を全部バックアップしてあります。競業避止とボーナスの精算については、私の弁護士から連絡させます」 文昭は私の手首をつかんだ。 「クライアントまで持っていくつもりか?」 私は彼の手を見下ろした。 「離してください」 彼は離さなかった。その指先が私の手首の骨に食い込み、痛みが走った。 「ここまでこじらせたら、収拾がつかなくなるのは明澄だぞ」 私は顔を上げた。 「社長、痛いです」 彼の動きが止まった。 私は自分の席に戻り、荷物をまとめた。 紗奈が後ろからついてきて、目を赤くしている。 「玉浦さん、本当に辞めるんですか?」 「うん」 「社長は絶対に、何日かしたら玉浦さんが戻ってくるって思っています」 私は社員証を外し、彼女の手のひらに置いた。 「それは、あの人がそう思ってるだけ」 第4話 エレベーターの前で、エレンが追いついてきて、私に引き継ぎ書類を差し出した。 「玉浦さん、これ、文昭が渡しておいてって言いました。クライアントのパスワード、見積もりの最低ライン、仕入れ先の名簿まで、きちんと書いておかなくては会社が困りますから」 私は書類を開いた。 その中には、異動通知が挟まっている。 日付は3日前となっている。 私にはもともと、総務部への異動が決まっていた。代わりに、エレンが企画部を引き継ぐことになっていた。 さらにその後ろには、保証書が一通。 文昭がエレンの海外研修を申請し、もし彼女が審査に落ちた場合、その費用は自分が負担する旨を約束したものだ。 私はその内容を見つめ、指先が冷たくなっていくのを感じた。 すべて、今日よりずっと前から決められていたのだ。 エレベーターのドアが開いた。 文昭のオフィスから、冷たい声が飛んできた。 「明澄、まだ何を持っていくつもりだ?」 私はエレベーターに乗り込み、閉じるボタンを押した。 「私自身」 ドアの隙間が狭まっていく中で、文昭の表情にようやく、わずかに歪んだ。 タクシーが新幹線の駅前に止まり、私は退職に関する書類を弁護士に送った。 紗奈から、立て続けにメッセージが届いた。 【社長が人事に言いました、玉浦さんの皆勤手当をカットするって。それに、3日もすれば自分から戻ってくるって】 【白岩さん、もう玉浦さんのオフィスに座っています。社長が自分で椅子を運んであげていました】 【白岩さんが玉浦さんのジャスミンの鉢植え、どうするかって聞いています。いらないなら社長の車に置くって】 私は最後のメッセージを見て、少し動きを止めた。 あのジャスミンは、4年間ずっと私が育ててきたものだ。 文昭が残業で胃を痛めているときは、私はいつも何輪か摘んで、彼の机のそばに置いた。 彼は、香りが薄いからちょうどいい、と言っていた。 私は紗奈に返した。 【捨てていいよ】 改札口へ向かう案内放送が流れた。 ジュエリーショップの店員から電話がかかってきた。 「荻村様が先ほどお店に来られて、指輪を早めに受け取ってサプライズで渡したいとおっしゃっていました。ですが、もうキャンセルされたと聞いて、とても不機嫌な様子で……」 「彼、署名しましたか?」 「いいえ。ただ、玉浦様は少し拗ねているだけだから、しばらくの間手続きしないでくれと言われました」 私はスーツケースを引きながら、改札へ向かった。 「お金を払ったのは私です。私の返金申請どおりに進めてください」 午後3時、列車が動き出した。 文昭からの電話が鳴り始めた。 一度目は、私が鳴り終わるのを見ていた。 二度目は、切った。 三度目で、番号をブロックした。 紗奈から、ボイスメッセージが届いた。 その向こうでは、文昭が怒りを押し殺した声で言っている。 「どこへ行けるっていうんだ?クライアントも、人脈も、家も、全部ここにあるんだ。法務に通知書を用意させろ。少し脅かせば戻ってくる」 エレンが小さな声でなだめた。 「玉浦さん、たぶん文昭になだめてほしいだけなんじゃないかな」 文昭が冷たく笑った。 「前は後部座席から降りることすら嫌がってたんだ。今回はどこまで意地を張れるかな」 私はスマホの電源を切った。 窓の外では、街がぼんやりとした線になって後ろへ流れていった。 夜、文昭が私たちが一緒に暮らしていたマンションへ戻った。 扉を開けた。 リビングには明かりがついていなかった。 食卓は空っぽだ。 玄関には私のスリッパがなく、ベランダにも私の服がない。台所からは、いつも煮物を作っていた土鍋まで消えていた。 文昭は手のひらを強く握りしめ、胸の奥に初めて恐怖が広がっていくのを感じた。 そのとき、インターホンが鳴った。 彼は勢いよく顔を上げ、ほとんど駆けるようにして扉を開けた。 そこに立っていたのは配達員だ。手には書類袋が一つ。 「荻村文昭さんですか?お届け物です」 文昭は封を破った。中から紙が三枚落ちてきた。 婚約破棄の示談書、結婚のために買った新居の手付金の返金受領書、それから弁護士からの通知書。 一番上には、私の署名があった。 【玉浦明澄】

More GoodNovel Novels