第1章
私の名前は杉本沙耶(すぎもと さや)。
夫の杉本和也(すぎもと かずや)が、地元のSNSで一気に話題になった。つけられたタグは「愛妻家の鑑」。
きっかけは、会議の合間を縫って、和也が私にお金を振り込み、写真まで添えてこまめに連絡していた姿を記者に撮られたことだった。
コメント欄は、そんな和也を絶賛する声であふれた。
【こういう人が理想の夫なんだよね。愛って、結局お金の使い方に出るよね】
ゼロから会社を立ち上げ、上場を果たすまでの10年間、私たちはずっと二人三脚でやってきた。
一番苦しかった頃には、日雇いで働いて、二人がその日食べるものを買うのがやっとだったこともあった。
あの頃、和也は私に言った。
「会社が軌道に乗ったら、沙耶にはもう二度と、こんな苦労はさせない」
その言葉どおり、和也はどれだけ忙しくなっても、欠かさず私にお金を振り込んでくれた。
私はずっと、それが今も変わらず愛されている証だと信じていた――あの日までは。
その日、研修が予定より早く終わった。
和也を驚かせたくて、何も知らせずに家へ帰った。
寝室のドアが少しだけ開いていた。
中から聞こえてきたのは、途切れ途切れの女の声と、荒い息遣いだった。
「キスは1回20万円。寝るのは1回100万円。避妊なしなら、さらに60万円」
「昨日は7回もしたじゃない。しかも避妊なしで。和也さん、今度は沙耶さんにいくら振り込んで、機嫌を取るつもり?」
和也が低い声で言った。
「黙れ」
私はスマホを握りしめた。
画面には、昨夜和也から振り込まれた760万円が表示されていた。
寝た分が7回で700万円。それに、避妊なしの60万円を足して760万円。
振り込まれたときは、「たった数日の研修なのに、こんな大金いらないよ」と笑っていた。
今になって、ようやく分かった。
あのお金は、私を安心させるためのものなんかじゃなかった。
和也が不倫を隠し通すために私へ振り込んでいた、ただの埋め合わせにすぎなかった。
第1話
寝室から聞こえていた物音が、ふいに途切れた。
その直後、どこか甘えるような女の声が聞こえてきた。何度も耳にしたことのある声だった。
「和也さん、今度はもうちょっと奮発してくれない?私も沙耶さんみたいに、いいバッグが欲しいな」
すぐに分かった。
4年間、私が援助を続けてきた苦学生、佐々木亜美(ささき あみ)の声だった。
ドアノブにかけた手が止まり、指先がすっと冷たくなった。
続いて聞こえた和也の声には、まだ気だるさが残っていた。
「お前と沙耶は違う。一緒にするな」
「何が違うんですか?」
亜美が甲高い声で笑った。
「結局、どっちも和也さんに養ってもらってるんだから、同じじゃないですか。沙耶さんのほうが年上だから、ご機嫌取りに余計お金がかかるってだけでしょ」
和也はそれ以上取り合わず、低い声で亜美を制し、シャワーを浴びるよう促した。
やがて、かすかな衣擦れが聞こえた。
私は震える足で玄関まで戻り、物音を立てないように家を出た。
ほんの数十秒のはずなのに、エレベーターが1階に着くまでがやけに長く感じられた。
車に戻ると、ついさっき和也から届いたメッセージを開いた。
【沙耶、会議終わった。600万円振り込んどいた。今日は早めに休めよ。俺はいつだって沙耶が一番だから】
添えられていたのは、コーヒーを手にした和也の後ろ姿の写真だった。
あんなことをした直後なのに、和也は何事もなかったように、いつもどおり私を気遣うメッセージを送ってきた。
私は送金履歴を開いた。
最初は20万円だった振込額が、回を重ねるごとにどんどん膨らみ、今では数百万円単位になっていた。
まるで、裏切りにもインフレがあるみたいだった。やることがひどくなるほど、埋め合わせの額も大きくなっていた。
思わず乾いた笑いが漏れた。その直後、涙が一滴、スマホの画面に落ちた。
しばらく車の中で気持ちを落ち着けてから、もう一度家に戻った。
和也は何事もなかったように、ソファでテレビを見ていた。
玄関の音に振り向いた和也は、私の姿を見るなり、一瞬だけ表情をこわばらせた。
「沙耶?もう帰ってきたのか?研修、あと2日あるんじゃなかったか?」
和也はすぐに立ち上がって私を抱きしめると、鮮やかなオレンジ色の箱を手に取り、私に差し出した。
「早く終わったなら、連絡してくれれば迎えに行ったのに。ほら、新しいバッグ。沙耶に似合いそうだと思って選んだんだ。どう?」
あまりにも自然に言うものだから、何も知らなければ疑いもしなかっただろう。
けれど今の私には、どこか機嫌を取ろうとしているように聞こえた。
これもまた、不倫を隠すための埋め合わせだった。
知られたくない。離れてほしくない。だから和也は、金で私をつなぎ止めようとしていたのだ。
何も知らない和也は、いつものように私の髪を撫でた。
「少し休んでろ。俺、シャワー浴びてくる」
しばらくして、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。
そのとき、ソファに置きっぱなしだった和也のスマホが震え、LINEの通知が届いた。
送り主は、亜美だった。
そこには、2000万円もするバッグを抱えた亜美の写真が添えられていた。
【バッグ届いたよ。和也さん、ありがとう】
写真の中で亜美が抱えていたのは、私が手にしていたバッグと同じブランドの限定品だったが、値段は比べものにならないほど高かった。
見比べているうちに、吐き気がこみ上げた。
亜美のためにあの限定バッグを手に入れるため、和也は店で購入実績を積んでいた。
私にくれたバッグも、その実績作りのために買ったものの一つにすぎなかった。
ふと、まだ二人で古いアパートに暮らしていた頃のことを思い出した。
冬になると隙間風が入るような部屋で、和也はたった1着しかなかった厚手の上着を私に着せ、これから先もずっと私だけを大事にすると誓ってくれた。
あの頃の約束を思い出すと、10年も和也を信じてきた自分が馬鹿みたいに思えた。
私は自分名義の株式関係書類と預金明細を揃え、弁護士に電話をかけた。
「離婚協議書を作ってもらえますか」
第2話
翌朝、空が白み始めたばかりの頃、亜美からLINEが届いた。
【沙耶さん、お腹がすごく痛くて……盲腸かもしれません】
【一人暮らしで、もし何かあったらと思うと怖くて……病院まで付き添ってもらえませんか?】
画面を見つめたまま、しばらく指が動かなかった。
結局、私は亜美に付き添って病院へ行くことにした。
病院に着いた頃には朝の受付が始まっていて、院内はすでに多くの人でざわついていた。
受付で亜美が腹痛を訴えると、看護師は痛む場所を確認してから、少し首をかしげた。
「この辺りの痛みだと、盲腸とは限らないですね。念のため、先に2階の婦人科で診てもらいましょう」
「婦人科……?」
亜美は一瞬体をこわばらせ、表情を曇らせた。
検査を受けてほどなく、亜美が妊娠6週目だと分かった。
けれど、妊娠を告げられても、亜美はほとんど動揺していなかった。
亜美は私を振り返り、何気ない口調で尋ねた。
「沙耶さん、結婚して長いですよね。妊娠したことも、ありますよね?
自分がお母さんになるって分かったとき、どんな気持ちでした?」
答えようとしても、喉の奥が詰まって声にならなかった。
結婚して3年。私は二度、子どもを失っていた。
最初の子を失ったのは、会社を立ち上げたばかりの頃だった。毎日のように営業先を駆け回り、無理が重なって倒れ、そのまま流産した。
その後も、アルコールを受け付けない和也の代わりに接待の席で酒を飲み続けた。胃出血で病院に運ばれたとき、二人目も流産していたことを知らされた。
それをきっかけに体を壊し、体外受精を続けた。何度も注射を打ち、治療を重ねたけれど、それでも妊娠することはなかった。
どこか挑発めいた亜美の表情を見て、何か言おうとした、そのときだった。
廊下の奥から、息を切らした和也が駆けてきた。ネクタイは曲がり、額には汗が浮かんでいた。
「沙耶、どうした?会議の合間に位置情報を見たら、病院にいるって出て、本気で焦ったぞ」
隣にいた亜美が唇を噛み、小さな声を出した。
「和也さん……ごめんなさい。私が沙耶さんを呼んだんです……」
和也は亜美を見るなり、冷たい声で言った。
「具合が悪いからって、勝手に沙耶を呼び出すな。迷惑かけるな」
ところが、亜美は怯む様子もなく、意味ありげに和也を見た。
「ごめんなさい……でも私、体力ないじゃないですか。
この前だって和也さんに、もっと体力つけろって言われたばかりなのに……」
二人は一瞬だけ視線を交わした。
その一瞬で、二人の間にただならぬ親密さがあることを嫌でも察した。
そのとき、和也は亜美が手にしていた検査結果に目を留めた。
「妊娠……?」
亜美は唇を噛み、目に涙を浮かべた。
「和也さん、沙耶さん……ごめんなさい。私……中絶しますから」
亜美は俯いたまま鼻をすすった。
「相手は悪くないんです。私が軽率だっただけで……」
「中絶」と聞いた途端、和也の表情が変わった。
「沙耶、このまま放っておけないだろ。
中絶だって体に負担がかかる。何かあってからじゃ遅い」
和也は私を見て、ため息をついた。
「沙耶なら分かるだろ。妊娠中は何があるか分からないんだから。
まずはちゃんと先生に診てもらおう。必要なら入院させればいい。今はそれが先だ。
せっかく授かった命なんだ。そんな簡単に決めることじゃないだろ」
和也の言葉がひとつひとつ、胸の奥に突き刺さった。
忘れたつもりでいた傷まで、容赦なくえぐり返されるようだった。
私が何も言えずにいる間に、和也はスマホを取り出した。
ほどなくして、私のスマホが震えた。
画面に表示されたのは、2000万円の振込通知だった。
昨日の600万円の3倍を軽く超える額だった。
和也は私の肩を抱き、声を落とした。
「亜美は4年も沙耶が支援してきた相手だろ。こんなときに放っておけないじゃないか。
一人暮らしで頼れる人もいないんだろ?だったら、俺たちが手を貸すしかない」
画面に表示された金額を見つめているうちに、思わず笑いが漏れた。けれど、涙も止まらなかった。
和也は戸惑ったように私を見て、涙を拭おうと手を伸ばした。
「沙耶……」
「……私たちしか頼れないんだ?」
私は顔を上げ、和也を見た。
「もういいよ、和也。芝居はやめて。
その子の父親が誰か、わざわざ私に言わせるの?」
平静に言ったつもりだったが、声は震えていた。
和也の顔色が変わり、伸ばしかけた手が止まった。
「何言ってるんだ……」
亜美がお腹に手を添えるのが目に入り、胸が締めつけられた。
「妊娠6週目なんでしょ。いつ頃できた子かくらい、分かるよね。あの頃、二人ともずいぶん忙しかったみたいだし」
「……自分が何言ってるか分かってるのか?」
和也が一歩詰め寄り、私の手を取ろうとした。
「自分の子じゃないって、本気で言い切れる?」
私は反射的に身を引いた。もう、和也に触れられることさえ嫌だった。
「和也、離婚しよう」
誰もすぐには何も言わなかった。
私は和也の肩を押しのけ、そのまま病院を出た。
外に出て冷たい風に当たったところで、ようやく気づいた。立っているのもやっとなほど、体が震えていた。
第3話
病院を出た私は、その足で会社へ向かった。
和也と二人で、何もないところからここまで育ててきた会社だ。離婚するとしても、自分の持ち株まで手放すつもりはなかった。
ところが最上階の会議室に入ろうとしたところで、以前は私の顔を見るたびに頭を下げていた取締役の一人に呼び止められた。
「奥様、申し訳ありません。今日は役員だけの会議ですので、こちらにはお入りいただけません」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
思わず乾いた笑いが漏れ、行く手を遮る男の手を払いのけた。
「私、取締役で、この会社の第2位株主なんだけど。いつから役員じゃなくなったの?」
取締役は気まずそうに目を伏せ、手元の資料を開いた。
「奥様は1年前、不妊治療に専念するため、保有株の管理と議決権を社長に一任する書類に署名されています。
現在、会社の意思決定権はすべて社長にあります」
頭の中が真っ白になった。
1年前、私は体外受精がうまくいかず、心も体も疲れ切っていた。
そんなとき、和也が分厚い書類の束を持ってきた。手続きに必要だからと言われ、私はろくに中身も確認せず署名した。
まさか、あのときから私を経営から外すつもりだったなんて。
信じたくなくて、その足で法務部へ向かった。
法務部長は私と目を合わせようともせず、震える手で資産明細を差し出した。
「奥様……保有されていた株式は、3か月前にすでに譲渡済みです。
今、奥様のお手元に残っているのは……社長から渡されている家族カードだけです」
3年間、私は身を削るように働き、徹夜の会議も一度や二度ではなかった。
それなのに、私が不妊治療に追われている間に、和也は私の知らないところで持ち株を奪い、取締役の地位まで取り上げていた。
「和也!」
私は社長室のドアを蹴るようにして開けた。
和也は椅子に深く腰掛け、驚く様子も見せなかった。まるで、私が来ることなど最初から分かっていたようだった。
泣き腫らした私の目に気づくと、和也は眉をひそめた。
「沙耶、なんで会社に来たんだ?疲れてるだろ。無理するな、座れよ」
立ち上がって近づいてきた和也を、私は思い切り押しのけた。
「私の株、どういうこと?私を取締役から外したのも、和也なの?」
持っていた書類を、和也の前に叩きつけた。
和也はため息をつき、ゆっくり椅子に座り直した。その顔は、腹が立つほど真剣だった。
「怒るのは分かる。でも俺はもう、沙耶が治療で苦しむのを見たくないんだ。亜美は若いし、体も丈夫だ。だったら、亜美に産んでもらえばいい。
生まれたら、子どもはこっちで引き取ればいい。沙耶が育てて、亜美には金を渡して海外に行ってもらう。それで全部終わりだ。
沙耶はもう無理して働かなくていい。家で何不自由なく暮らせばいいだろ。それで十分じゃないか」
和也は本気で、私が怒っている理由を理解していないようだった。
胃の奥がむかついた。
10年も一緒にいたのに、私はこの人の何を見ていたんだろう。
「和也、本気で言ってる?
私が4年も支援してきた子と不倫して、妊娠させて、生まれた子を私に育てさせるつもり?
それを私のためだなんて、よく言えるね。……本当に気持ち悪い。
離婚する。私の株は返して。取締役にも戻して。それが済んだら、もう二度と関わらない」
和也の表情から、すっと温度が消えた。
「沙耶は甘いよ。10年も経てば、人だって変わる。
離婚する気はない」
和也はスマホに目を落とした。
「本当は、生活に困らないようにしてやるつもりだった。でも、そこまで意地を張るなら……」
数秒後、私のスマホが立て続けに震えた。
和也から渡されていた生活費用の口座も、家族カードも、すべて使えなくなっていた。
そのとき、和也のスマホが鳴った。
画面を確認した和也は、スピーカーで電話に出た。
すぐに、亜美の甘えるような声が聞こえてきた。
「和也さん、先生が赤ちゃんは順調だって。心拍もちゃんと確認できたって。
いつ会いに来てくれるの?」
和也は一度だけ私を見て、短く返した。
「仕事が片づいたら行く」
通話を終えると、今度は私に向き直った。
「しばらく頭を冷やして考えろ。
気が変わったら、戻ってこい」
第4話
会社を出た私は、何も考えられないままタクシーに乗り、街の西の外れにある家へ戻った。
1年前、和也が私に不妊治療に専念してほしいと言って、静かに過ごせるようにと買った家だった。
ソファに腰を下ろし、これからどうすればいいのか考えていたとき、突然スマホが激しく震えた。
「沙耶!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、母の弟、木村浩司(きむら こうじ)の切羽詰まった声だった。
「お母さんが脳出血で倒れた!今から緊急手術だって。病院からも、すぐに200万円用意してほしいって言われてる。沙耶、何とかならないか?」
頭の中が真っ白になった。
すぐに送金しようとしたが、和也に止められた口座はまだ使えなかった。
ほかの口座も片っ端から確認した。それでも、今すぐ用意できるだけのお金はどこにもなかった。
不妊治療を始めてから、私は会社の仕事を離れていた。それまでに貯めていたお金も、ほとんど会社の運転資金につぎ込んでいた。
震える手で和也に電話をかけた。
今すぐ200万円を用意できるとしたら、頼れるのはもう和也しかいなかった。
何度呼び出しても出なかった。
もう駄目かと思った頃、ようやく電話がつながった。
「もしもし?」
けれど、聞こえてきたのは和也ではなく、鼻にかかった気だるげな亜美の声だった。
「亜美?和也は?代わって。急いでるの」
「沙耶さん、そんなに慌ててどうしたんですか?」
亜美はのんびりした口調で答えた。
「和也さんなら今、シャワー浴びてますよ。しばらく出られないと思います。
スマホも預けてくれたんです。妊娠中に必要なもの、好きに買っていいって」
「亜美、お願いだから――」
「お金のことでしょ?」
私の言葉を遮るように、亜美の声が急に冷たくなった。
「沙耶さんが言うこと聞かないなら、その分、私に使ってもらえばいいだけじゃないですか。
これだけあれば、高級な産後ケアホテルにだって泊まれるし、体にいいものも好きなだけ買えますし」
「母を助けるためのお金なの!お願いだから、和也に代わって!」
亜美は鼻で笑った。
「それがどうしたんですか?
さっき浩司さんからも電話がかかってきましたけど、私が切っておきました。
和也さんは何も知りませんよ。助けてもらおうなんて思わないほうがいいです」
全身から血の気が引いた。
「どうして……そんなことするの……」
「沙耶さんのことが嫌いだから」
亜美は笑いながら、悪びれもせずに言った。
「どうして沙耶さんだけ何不自由なく暮らして、私はずっと人に助けてもらってなきゃいけないんですか?
私だって、もっといい暮らしがしたいんです。そのためなら、沙耶さんを踏み台にするくらい何とも思いません」
スマホを握る手が震えた。
和也が会社を立ち上げたばかりの頃、私たちは食費にも困るほど苦しかった。
そんな私たちを見かねて、母は私に黙って、自分が持っていた唯一の古い家を売った。
そして通帳を私に渡してくれた。
「沙耶、困ってるならこれを使いなさい。和也なら、きっとあんたを幸せにしてくれるから」
その母が今、命の瀬戸際にいた。
それなのに亜美は、和也に知らせるどころか、叔父からの電話まで勝手に切っていた。
私は昔の友人や元同僚に片っ端から電話をかけ、事情を話して金を貸してほしいと頼んだ。
まだ箱も開けていなかったバッグまで質屋に持ち込んだ。
あちこちから必死にかき集め、ようやく200万円を用意すると、すぐに振り込んだ。
けれど、遅かった。
30分ほどして、叔父からまた電話がかかってきた。
電話に出ても、しばらく何も聞こえなかった。
やがて、叔父が嗚咽まじりの声で言った。
「沙耶……お母さん、助からなかった。先生たちも、できることは全部やってくれたんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜け、私はスマホを握ったままその場に崩れ落ちた。
頭の中は真っ白で、涙さえ出なかった。
そのとき、握りしめていたスマホがまた震えた。
画面に表示されたのは、弁護士の名前だった。
「杉本さん、離婚に向けた準備は一通りできています。株式関係の資料も確認しました。
ご主人の不貞については、慰謝料を請求できるだけの材料があります。株式の譲渡についても、経緯を詳しく調べれば争える可能性があります。
離婚調停を申し立てるのであれば、すぐに手続きを進められます。どうされますか?」
私は目を閉じた。
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