第1章
交際4周年の記念日を祝い直すため、朝倉時哉(あさくら ときや)は私をフェアリーランドへ連れていくと言った。
私の親友・柳原詩乃(やなぎはら しの)は熱を出していたのに、彼はそれでも詩乃を連れてきた。
「詩乃はこの日をずっと楽しみにしてたんだ。水を差さないでくれ」
私は2か月遅れの記念日ケーキを見つめ、うなずいた。
けれど入園の際、チケット係は時哉と詩乃を見ると、笑顔で2枚のステッカーを差し出した。
「朝倉様、柳原様。今夜もお城の3周年記念コースを回られますか?システムでは、あとは花火をバックに最後の記念写真を撮れば、すべて揃います」
私はその場に立ち尽くした。
時哉は顔色ひとつ変えずにステッカーを受け取り、何気なく詩乃のスカートの裾に貼った。
「スタッフの企画だよ。何でも真に受けるな」
詩乃は、時哉がこの日のために用意したプリンセスドレスを着ていた。彼女は当然のように時哉の腕に絡み、慣れた様子で私を列の最後尾へ連れていった。
パレードの間、時哉は詩乃のためにカメラを構えていた。
ジェットコースターが急降下すると、詩乃は悲鳴を上げて彼の胸に飛び込んだ。
私が一度だけ乗りたいと言ったメリーゴーラウンドだが、時哉は眉をひそめた。
「いつも、もう子供じゃないって言ってただろ?どうして今日に限って甘えるんだ」
日が暮れ、お城の花火が始まろうとしていた。
前もって予約しておいた観覧エリアに着くと、そこには詩乃の手を取って立つ時哉がいた。
スタッフが、両腕いっぱいのバラを詩乃に手渡しているところだった。
「柳原様、朝倉様がご予約になった3周年の花火サプライズをご用意しております」
私は手の中のカップケーキに目を落とした。
列に並んで買った、200円のものだ。
その一方で、詩乃が抱えるバラは観覧スペースを埋め尽くすほどだった。
花火が上がると、大型スクリーンに1行の言葉が映し出された。
【詩乃が毎年この日を迎えるたび、いつも時哉がそばにいますように】
記念写真は3年前から順に流れていった。
1年目、詩乃は時哉の肩にもたれていた。2年目、時哉は詩乃にキャラクターのカチューシャを着けてやった。3年目、時哉は花火の下で身をかがめ、詩乃の額に口づけた。
私が失望を重ねた一年一年の裏で、彼女にはこんなにも華やかな一日が用意されていたのだ。
花火は変わらず美しかったけれど、私はもう願い事をしなかった。
願いは口に出せば、かなわなくなるから。
そして私に残されたただひとつの願いは、彼のもとを去ることだった。
第1話
花火が終わると、人々は出口へ押し寄せた。
詩乃はあのバラの花束を抱えていた。熱で顔は真っ赤なのに、それでも花を誰かに預けるのが惜しいらしい。
時哉は詩乃のショールを整えてやった。
「先に救護室で熱を測ろう」
詩乃が小声で言った。「でも、夕花はまだ写真を撮ってないよ。お城の前で1枚撮りたいって言ってなかった?」
時哉はそこで初めて私を見た。
今夜がそもそも誰の記念日だったのか、ようやく思い出したようだった。
「撮りたいのか?」
私は時哉を見つめた。
その手にはまだ詩乃のスマートフォンがあり、画面にはさっき撮った花火との記念写真が表示されていた。
3周年記念コースの最後の記念写真。
詩乃がずっと待ち望んでいたこの日は、今日始まったものではなかったのだ。
私は首を横に振った。
「もういい」
時哉がわずかに眉をひそめた。
「今度はどうした?」
詩乃はせきをし、時哉の袖を指でぎゅっとつかんだ。
「時哉、夕花は怒ってるんじゃない?私、先に帰ろうか。来るべきじゃなかったよね」
そう言いながら、詩乃は私にバラを押しつけようとした。
時哉はすぐにその手を押さえた。
「熱があるのに、無理をするな」
それから私を振り返った。「小暮夕花(こぐれ ゆうか)、そんな不機嫌な顔をするな。詩乃は具合が悪いんだ。今日は詩乃の夢をかなえるのに付き合ってやったと思えばいい」
「じゃあ、私の夢は?」
口にした自分自身が、その言葉に驚いた。
時哉も言葉を止めた。けれど、すぐに小さく笑った。
「こういうおとぎ話を一番信じてなかったのは夕花だろ?どうして今日に限って、プリンセスの夢をめぐって詩乃と張り合うんだ?」
私は顔をそむけようとした。
けれど視線を落とした瞬間、よりによって詩乃のスカートの裾が目に入った。
【朝倉様&柳原様】
急に喉がひどく詰まったように感じた。
私が黙っているのを見て、時哉は手を伸ばし、私をそばへ引き寄せた。
「もういい、意地を張るな。詩乃が熱を測り終えたら、さっき言ってたポップコーンバケットを買いに付き合う」
私は一瞬、目を見開いた。
あのポップコーンバケットは、売店の前でほんの少し長く眺めただけだった。そのとき時哉はうつむいて詩乃のメッセージに返信していたから、まったく気づいていないと思っていた。
けれど時哉は、意外にも覚えていた。
心がほだされかけたそのとき、詩乃の体がふらりと揺れた。
時哉はほとんど反射的に私を放し、詩乃の腰を支えた。
「詩乃?」
「大丈夫。ちょっと寒いだけ」
時哉は上着を脱いで詩乃の肩に掛けると、私が持っていたホットココアまで取り、ストローを差して詩乃の口元へ運んだ。
「少し飲め」
私は空になった手を見下ろした。
そのホットココアは、時哉がさっき15分並んで買ってきたものだった。
甘さ控えめで、少しぬるめ。
私に渡したとき、時哉はこうも言っていた。「胃が弱いんだから、冷たいものは飲むな」
今、詩乃はストローをくわえ、柔らかな声で言った。「ちょうどいい甘さ」
時哉は詩乃の髪を軽くなでた。
「いつもこのくらいの甘さだろ?」
私の手から、少しずつ温度が失われていった。
私が4年間味わってきた甘さは、ほかの人にも与えられていたのだ。
救護室で、看護師は詩乃に微熱があるので、これ以上風に当たらないほうがいいと言った。
時哉はすぐ運転手に、一番近い出口まで車を回すよう頼んだ。
私は2人のあとをついていった。手の中の200円のカップケーキは、もう押し潰されていた。
車に乗るとき、詩乃はごく自然に助手席のドアを開けた。時哉が片手を上げて詩乃の頭をかばう。その動きは、とても初めてとは思えないほど自然だった。
私は車の脇に立っていた。
時哉は私を振り返り、少しよそよそしい口調で言った。
「夕花は後ろに座ってくれ。詩乃は車酔いするから」
後部座席には、詩乃のバラ、カチューシャ、ショール、それに3周年の記念ギフトボックスが積まれていた。
乗り込むと、バラの枝が膝に刺さった。
バックミラー越しにそれを見た時哉が、花をどけようと手を伸ばした。
けれど詩乃は、花束をそっと押さえた。
「潰さないで。時哉がずっと前から用意してくれてたものなの」
時哉の手は宙で止まり、やがて引っ込められた。
「夕花、少し横にずれてくれ」
車窓の外、夜空にはまだ、先ほどまで花火が咲いていた煙の跡が残っている。
私はうつむき、スマートフォンを開いた。
3分前、詩乃がSNSを更新していた。
【3年目、ついに最後の1枚までそろったよ】
添えられた写真では、時哉が詩乃のためにバラを掲げ、2人の頭上で花火が咲いていた。
コメント欄で、誰かが尋ねていた。
【これ、どう見てもプロポーズじゃない?】
詩乃は照れた顔の絵文字をひとつ返していた。
時哉は何も説明しなかった。
私は航空券の予約アプリを開き、長いこと画面を見つめていた。そして最後に、3日後の清浜市行きの片道航空券を1枚買った。
そこに、お城はない。
時哉もいない。
第2話
家に着いたときには、もう午前1時になっていた。玄関に立つ詩乃の顔は、ひどく青ざめていた。
「夕花、私、2人の邪魔をしちゃった?」
私が口を開く前に、時哉はもう詩乃を支えてリビングへ入っていった。
「今夜はここに泊まれ」
私は時哉を見上げた。
「ここは私たちの家だよ」
「分かってる」
その口調は落ち着いていて、当然のことを言っているようだった。
「まだ熱が下がってない。夜中に1人で帰すのは危ない」
詩乃は目を赤くして私を見た。
「それなら私、ソファで寝るよ。夕花を嫌な気持ちにさせたくないから」
時哉が眉をひそめた。
「熱があるのに、ソファで寝られるわけないだろ」
そう言うと、時哉はまっすぐ寝室へ入っていった。
戻ってきたその手には、私の白いルームワンピースと、私が長く使ってきた薄手のブランケットがあった。
そのブランケットは去年の冬、手足が冷える私のために、時哉がわざわざ買ってくれたものだった。私は夜になると布団を蹴るから、これを抱いて寝れば少し暖かいと言っていた。
今、そのブランケットを時哉は詩乃の腕に載せた。
「今夜だけ、これで我慢してくれ」
私は手を伸ばして止めた。
「それはだめ」
時哉が私を見る。その目には、わずかないら立ちが浮かんでいた。
「詩乃はこんなに熱があるのに、ブランケット1枚くらい貸せないのか?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何なんだ?」
時哉は声を抑えた。
「夕花、今夜はもう十分疲れた。これ以上けんかをふっかけないでくれ」
ブランケットを抱えた詩乃の目から、急に涙がこぼれた。
「時哉、夕花を責めないで。夕花がいつも自分の物をとても大切にしてるのは、私も分かってるから」
詩乃が聞き分けよく振る舞うほど、私は譲ろうとしない悪者に見えた。
時哉は数秒黙り、ブランケットを詩乃の腕に押し戻した。
「シャワーを浴びてこい」
詩乃はうなずき、私のそばを通るとき、小さな声で言った。「夕花、ありがとう」
私は答えなかった。
時哉は詩乃のために湯を用意し、救急箱から熱冷ましシートも取り出した。
薬を探しながら、時哉はついでに胃薬を1箱取り出し、ローテーブルに置いた。
「夜、何も食べてないだろ。あとで2錠飲んで、また胃を痛めるなよ」
私はその胃薬を見つめた。
ひどく滑稽だった。時哉は、私が痛い思いをすることをちゃんと知っている。
ただ、私が傷つくことなんて、いつだって詩乃のあと回しだった。
シャワーを終えて出てきた詩乃は、私の白いルームワンピースを着ていた。
「夕花、このワンピ、いい匂い」
詩乃はかすかに笑った。
「使ってる洗剤、今も時哉が好きなあの香りなんだよね?」
詩乃に水を注いでいた時哉は、それを聞いて何気なく言った。「4年も使ってるんだ。もう慣れてる」
私は不意に尋ねた。「どうして詩乃も、少しぬるめのココアが好きだって知ってたの?」
リビングが静まり返った。
詩乃の指先がぴくりと止まった。
時哉がこちらを見た。
「何の話だ?」
「何でもない」
私は胃薬を押し返した。
「記憶力がいいんだなって思っただけ」
私のとげを感じ取ったのか、時哉の表情が険しくなった。
「フェアリーランドでもずっと嫌味ばかり言ってたよな。まだ気が済まないのか?」
詩乃は慌ててコップを置いた。
「けんかしないで。全部私が悪いの。このワンピースを着るべきじゃなかったし、あのココアも飲むべきじゃなかった」
そう言いながら、詩乃はルームワンピースを脱ごうと胸元に手をかけた。
時哉がとっさに詩乃の肩を押さえた。
「熱があるんだ。無理をするな」
それから時哉は私を見た。
「夕花、いったいどうしてほしいんだ?」
その言葉は、もう何度も聞いてきた。遅刻したときも、約束を破ったときも、私を置いて詩乃を迎えにいったときも。
時哉がそう尋ねるたび、悪いのは私だったかのようになった。
私は目を伏せ、かすかな声で言った。
「私たちの周年祝いだって、覚えていてほしかっただけ」
時哉は一瞬、目を見開いた。
はっとローテーブルへ目を向けた。2か月遅れの記念日ケーキはまだそこにあり、箱の縁は私が握り締めたせいでしわになっていた。
長い沈黙のあと、時哉は歩み寄り、私の前にしゃがんだ。
「悪かった」
時哉は私の手を握り、声を和らげた。
「明日は俺たちが入籍する日だろ?一緒に行く。9時30分には必ず着く」
私は時哉を見つめた。
時哉が真剣になだめてくると、私はまた情けなくも信じかけた。
けれどそのとき、ソファにいた詩乃が小さくせきをした。
時哉はすぐに振り返った。
「薬は飲んだか?」
詩乃は首を横に振った。
「苦い」
時哉は立ち上がり、砂糖を取りにキッチンへ向かった。
私の手のひらには、まださっきの時哉のぬくもりが残っていた。
スマートフォンの画面が明るくなり、航空券の予約アプリから通知が届いた。
【ご予約の清浜市行き便は、3日後に出発予定です】
スマートフォンの画面は明るくなり、また暗くなった。清浜市へ行くその航空券は、結局キャンセルしないままにした。
第3話
翌朝、私は6時には目を覚ました。
白いシャツに3回アイロンをかけ、髪をまとめてはほどき、結局は以前、時哉が似合うと言ってくれた髪型を選んだ。
7時過ぎ、時哉から電話がかかってきた。その声は少し低かった。
「すぐそっちへ行く。朝食も買った。ブラックコーヒーも」
私はスマートフォンを強く握った。
「分かった」
20分後、時哉の車が道端に止まった。
歩み寄ろうとしたとき、後部座席の窓が下がった。中には詩乃が座っていて、額にはまだ熱冷まし用のシートが貼られていた。
詩乃は私に微笑んだ。
「夕花、私もついでに病院でもう1度診てもらうの。2人の邪魔はしないから」
時哉は車を降り、私に朝食を差し出した。
「少し食べとけ。これから時間がかかりそうだ」
私は袋に目を落とした。
おにぎりは私が好きな店のもので、コーヒーも確かにブラックだった。けれど次の瞬間、車の中から、詩乃が苦しそうに声を漏らした。
「時哉、少し息が苦しい」
時哉の顔色がすぐに変わった。彼はドアを開け、詩乃の額に触れた。
「どうしてこんなに熱いんだ?」
詩乃は時哉の手首をつかんだ。
「私のことはいいから、先に夕花と手続きしてきて。今日は大事な日でしょ」
けれど詩乃がそう言えば言うほど、時哉がここを離れるはずはなかった。
時哉は私を見た。
「先に受付番号を取っておいてくれ。詩乃を病院へ連れていって、点滴を受けさせたら戻る」
私は時哉を見つめた。
「時哉、今日は入籍する日でしょ」
「分かってる」
「でも、受付時間を過ぎたら今日手続きできなくなる」
「間に合う」
時哉は確信に満ちた口調で言った――私に約束するときは、いつだってそうだった。
そうして私は1人で手続き窓口のある庁舎へ入った。受付番号が3回呼ばれても、時哉はまだ来なかった。
窓口の表示番号は、すでに私の受付番号を過ぎていた。職員は婚姻届と本人確認用の書類を私に返した。
「受付番号を取り直していただくしかありません」
私は書類を抱えてその場に立ち尽くしていた。するとそのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。
詩乃から写真が1枚送られてきた。
時哉はうつむいて詩乃の会計をしていて、スマートフォンは詩乃の膝に載っていた。
詩乃はそこに、ひと言添えていた。
【夕花、ごめんね。今日は本当なら、2人にとって大切な日だったのに】
どれくらい時間が経っただろう、時哉がようやく駆けつけた。額には汗が浮かんでいた。それでも手には花束を持っている。
「道が渋滞してた」
私は花を受け取らず、順番を過ぎた受付番号票だけを時哉に差し出した。
「もう役所の窓口は閉まったよ」
時哉は数秒黙り、私の腕の中に花束を置いた。
「来週、また来ればいい」
私は笑った。
「簡単に言うんだね」
「夕花、たった1週間だ」
「あなたにとっては、たった1週間なんだね」
私は時哉を見上げた。
「でも私にとっては、4年間待ってきた」
時哉の表情が急に冷たくなった。
「夕花、婚姻届のことで、どちらかを選べと迫るな。詩乃は具合が悪いんだ。1人で病院に置いておけるわけがない」
私は花束を時哉の手に返した。
「じゃあ、どうして私のことは1人でここに置いておけるの?」
時哉は言葉に詰まった。数秒後、時哉は私を引き寄せようと手を伸ばした。
「もういい。昼は一緒に食事をして、午後はブライダルショップへドレスを見にいこう。あのサテンのが好きだと言ってただろ?」
私はその手を避けたそのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。
詩乃がまたSNSを更新していた。
写真の中では、時哉が腰をかがめて詩乃の靴ひもを結び、病院の廊下の明かりがその肩に落ちていた。
投稿には、こう書かれていた。
【彼氏じゃないのに、彼氏より安心させてくれる人もいる】
共通の友人たちが、その下ではやし立てていた。
【じゃあ、時哉の奥さんになるのは誰?】
詩乃は返信しなかった。けれど時哉は、それを目にした。
時哉の最初の反応は誤解を解くことではなく、私の画面を消すことだった。
「詩乃は具合が悪いんだ。責めにいくな」
私は時哉を見上げた。胸を何かに強く握り締められたようで、息をすることさえ痛かった。
「時哉、私はまだ何も言ってない」
「でも、何を言いたいかは分かる」
時哉の声には疲れがにじんでいた。
「夕花、おまえとの結婚を、こんなにしんどいものだと思わせないでくれ」
一瞬、私はその場で動けなくなった。
この4年、私は何度も何度も譲ってきた。それなのに、どうして最後には、そのすべてが彼にとって「面倒」になってしまったんだろう。
時哉もすぐに、言いすぎたと気づいたらしい。唇がわずかに動いた。
「そういう意味じゃない」
私は握り潰した受付番号票を見下ろし、急に何ひとつ説明したくなくなった。
「もう、どうでもいい」
私は受付番号票を時哉の手に置き、背を向けて歩き出した。
時哉は追ってこなかった。私も振り返らなかった。
第4話
家に帰ると、リビングにはまだ明かりがついていた。テーブルには、新しいケーキが置かれていた。
今度は、チョコレートプレートにこう書かれていた。
【4周年おめでとう!夕花、もう機嫌直して】
ダイニングテーブルの脇に立っていた時哉が、指輪の箱を取り出した。
「今日は言いすぎた」
その指輪は、以前私が何気なく褒めたデザインだった。
時哉はすべて覚えていたのだ。
それなのに、どうして時哉はいつも、私がすっかり失望しきるまで待ってから、それを持ち出してなだめるのだろう。
私は顔をそむけ、返事をしなかった。
時哉はしばらく黙ったあと、うつむいて指輪の箱を開け、声を和らげた。
「もう1度だけ信じてくれ。来週は、絶対に遅れない」
けれど次の瞬間、時哉がテーブルに置いたスマートフォンの画面が明るくなった。
詩乃からメッセージが届いていた。
【時哉、コメント欄でみんなに浮気相手だって責められてる】
【私、もう本当に耐えられない】
【夕花はまだ怒ってるの?ひと言だけ説明してもらえないかな?】
時哉はすぐに画面を消した。
私は時哉を見た。
時哉は私の視線を避け、指輪の箱を閉じた。
「SNSに投稿してくれ。今日、婚姻届を出せなかったのは、夕花の体調が悪かったからだと」
私は小さく笑った。結局、詩乃が招いた騒ぎの後始末を私にさせたいのだ。
私は指輪を押し返した。
「投稿しないよ」
時哉の顔がたちまち険しくなった。
「詩乃は明日、チャリティー活動のイメージ審査を受ける。こんな話が広まったら、大きな影響が出る。夕花、これ以上みっともない騒ぎにするな」
時哉は歩み寄り、私の肩をつかんだ。
「ひと言投稿すれば、ウェディングフォトも、結婚式も、婚姻届も、全部予定どおりにする。夕花のお母さんにも、俺から説明する」
「お母さん」という言葉を聞き、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「お母さんに何を言ったの?」
時哉は私の視線を避けた。
「午前中に、入籍のことを聞かれた。夕花の気持ちが不安定で、急に日程を変えたと答えた」
私はその場で固まった。
お母さんは昨夜、夜通しアルバムをめくり、おばあちゃんがくれたブレスレットを着けるかと私に尋ねていた。
婚姻届を出すのはめでたいことだから、ちゃんと華やかにしないとね、とお母さんは言った。
けれど時哉の話では、私が情緒不安定になって、急に予定を変えたことになっていた。
「どうしてそんなことを言ったの?」
時哉の表情も冷たくなった。
「ほかにどう言えばいい?詩乃の具合が悪くなって病院へ連れていき、夕花を1人で役所に残したとでも言うのか?」
「それが事実でしょう?」
「事実なら、何でも話さなきゃならないのか?」
時哉はついに、いら立ちを隠さなくなった。
「夕花、大人なら、お互いの立場を守ることも覚えないといけない」
私は時哉を見つめ、その言葉が急におかしく思えた。
時哉は詩乃の立場を守った。
自分自身の立場も守った。
ただ、恥をかかされるのはいつも私で、その恥はほかの人の過ちを何度も覆い隠すために使われていた。
私はテーブルのスマートフォンを手に取った。
私が承諾したと思ったのか、時哉の表情が少し和らいだ。
「ひと言でいい。余計なことは書くな」
私は時哉の目の前でSNSを開いた。そして詩乃の投稿についたコメントに、ひと通り目を通した。
【結局、時哉の奥さんになるのは誰?】
【本命の婚約者が一番モブみたいになってるけど?】
【病気なのに、婚約者は心が狭すぎない?】
私の隣に立つ時哉が、声を低くした。
「投稿したら、夕花の好きな店でうどんでも食べよう」
私は時哉を見上げた。
「時哉、一つだけ聞きたい。私が投稿しなかったら?」
時哉の顔から、穏やかさが少しずつ消えていった。
「それなら、結婚式はいったん保留にする」
手のひらでスマートフォンが震えた。けれど私は、急に画面を見るのが怖くなった。
「もう一度言って」
「今の夕花の状態では、結婚には向いていない」
時哉は私を見つめ、ゆっくりと言い切った。
「これから毎日家に帰って、詩乃を敵のように扱う妻と顔を合わせたくない」
指輪の箱は、まだテーブルに置かれていた。ケーキのクリームは、もう崩れ始めていた。
私はふと、4年前に時哉が初めて私の手を握った日のことを思い出した。
時哉は言った。「夕花、俺は身内を守る人間なんだ。これから先、誰かが夕花を傷つけたら、俺が真っ先に許さない」
4年前、私を守ると言った時哉が今の自分を見たら、それでも同じ人間だと思えるのだろうか。
私がいつまでも動かずにいると、時哉はスマートフォンを私の前へ押し出した。
「投稿してくれ」
私は動かなかった。時哉の声が低くなった。
「夕花、詩乃を追い詰めるな」
私は時哉を見つめ、急に反論することさえ無意味に思えた。
私が役所で周囲の笑いものになっていたとき、時哉は私のためにひと言も言ってくれなかった。
それなのに今は、詩乃をかばうために私に隠し事をさせようとしている。
私はスマートフォンを手に取った。
時哉はそばに立ち、私が1文字ずつ入力するのを見ていた。
【今日、婚姻届を出せなかったのは、私の体調が悪かったからです。詩乃は関係ありません】
時哉はそれをさっと確認した。
「もうひと言、加えてくれ」
私は時哉を見上げた。
「何を?」
「詩乃はただの友達だと」
私はうつむき、その文を付け加えた。
【詩乃は私たちの友人です】
その瞬間、私はすべてがひどくばかげていると思った。
まもなく時哉と結婚するはずの私が、自分のつらささえ詩乃のために後回しにしなければならないとは思わなかった。
投稿が完了すると、時哉は明らかにほっとした。
「最初からそうすればよかっただろ?」
その直後、詩乃から電話がかかってきた。詩乃は息を詰まらせるように泣いていた。
「時哉、私のページではまだ、横取りしたって責められてる……本当に怖い……」
時哉は私をひと目見た。
「すぐそっちへ行く」
私は小声で尋ねた。「また行くの?」
「詩乃のほうを先に何とかしないといけない」
「じゃあ、私は?」
上着を取ろうとした時哉の手が、一瞬止まった。
「夕花は家で頭を冷やしてくれ」
私は笑った。
「時哉、私はもう十分冷静だよ」
時哉は、私の言葉の意味に気づかなかった。あるいは気づいていても、気にしなかった。
家を出る前、時哉はあの指輪の箱をもう一度、私の前へ押し戻した。
「指輪はここに置いておく。考え直したら、自分ではめてくれ」
ドアが閉まる音は、とても小さかった。
けれど私の心に残っていた最後の何かは、大きな音を立てて粉々に砕けた。
もうためらわず、3日後の航空券を今夜の便へ変更した。
あのSNS投稿を削除し、スマートフォンの電源を切り、前から荷造りしてあったスーツケースを引いて家を出た。
搭乗前、私は最後に一度だけスマートフォンを見た。
時哉からの着信も、メッセージもなかった。
それでよかった。
今度こそ、私はもう戻らない。