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ボスの妻をやめた日
ヴィヴィアン・カーターが22歳でセバスチャン・クロスと結婚したとき、誰もが彼女を幸運だと言った。 10歳年上の彼は、絶大な権力を握るマフィアのボス。それでも結婚してからの3年間、彼が愛を注いだのはヴィヴィアンただ一人だった。 彼女の望みは何でも叶え、庇護のもとで大切に守る。どんな些細なことにも気を配る、優しい夫だった。 そして夜になると独占欲をむき出し、涙ながらに懇願しても手を緩めず、飽くことなく彼女を求めた。 ――ヴィヴィアンは、自分こそが彼の愛する唯一の人間だと信じて疑わなかった。 だがある日、父が突然亡くなった。悲しみに打ちひしがれた彼女はセバスチャンに何度も何度も電話をかけたが、すべて切られた。 そして一枚の写真が、彼女の抱いていた幻想を一瞬で打ち砕いた。 夕暮れの光に包まれた街角で、3年間愛してきた男が、別の女性を抱き寄せていた。 その穏やかな顔立ちで、ヴィヴィアンにどこか似たその女性は、彼女の従妹だった。
チャプター (1)
第1章
ヴィヴィアン・カーターが22歳でセバスチャン・クロスと結婚したとき、誰もが彼女を幸運だと言った。
10歳年上の彼は、絶大な権力を握るマフィアのボス。それでも結婚してからの3年間、彼が愛を注いだのはヴィヴィアンただ一人だった。
彼女の望みは何でも叶え、庇護のもとで大切に守る。どんな些細なことにも気を配る、優しい夫だった。
そして夜になると独占欲をむき出し、涙ながらに懇願しても手を緩めず、飽くことなく彼女を求めた。
――ヴィヴィアンは、自分こそが彼の愛する唯一の人間だと信じて疑わなかった。
だがある日、父が突然亡くなった。悲しみに打ちひしがれた彼女はセバスチャンに何度も何度も電話をかけたが、すべて切られた。
そして一枚の写真が、彼女の抱いていた幻想を一瞬で打ち砕いた。
夕暮れの光に包まれた街角で、3年間愛してきた男が、別の女性を抱き寄せていた。
その穏やかな顔立ちで、ヴィヴィアンにどこか似たその女性は、彼女の従妹だった。
第1話
父の葬儀に、夫のセバスチャンはとうとう現れなかった。
彼が帰ってきたのは、夜になってからだ。青白く憔悴した私の顔を見て、慰めるように手を伸ばしてきたけれど、私は顔を背けた。
「悪かった、ヴィヴィアン。急な用事ができて、どうしても片づけなきゃならなかったんだ。必ず埋め合わせをする。欲しいものがあれば何でも言ってくれ、な?」
私はしばらく黙ったあと、きれいに折りたたんだ2通の書類を彼の前に差し出した。
「じゃあ、これに署名して」
セバスチャンはほっとした顔でペンを取り、内容も確かめずに名前を書いた。私が望むことなら、何でも迷わず聞き入れるつもりなのだろう。
「君とお腹の子に必要なものは、何でも用意するよ」
私が何か言おうとしたとき、けたたましい着信音が静けさを破った。画面に表示されたのは、彼が連絡先の一番上に固定し、私には決して見せなかった名前――セリーナ。
私の従妹、セリーナ・ブルックスだった。
彼は電話を切ると気まずそうに笑い、私の額に軽くキスをした。
「ごめん、用事ができた。俺たちの子のために稼いでくるよ。次はちゃんと一緒に過ごすから」
返事も待たず、彼はコートをつかんで足早に出ていった。名残惜しむ様子は少しもなかった。
家の中は静まり返り、がらんとした空間に押しつぶされそうで息が苦しい。私はゆっくりとソファに身を沈めた。
すると、この3年間の出来事が、細かなことまで次々によみがえってきた。
セバスチャンは街中の女性に羨まれるほどに、私に優しかった。
眠りの浅い私を毎晩そばに抱き寄せ、布団を掛けてくれた。
喧嘩をすれば、どちらが悪くても、先に私をなだめて謝るのはいつも彼だった。自分の気持ちを飲み込んででも私を傷つけまいとし、私の怒りが収まるまで仕事にも手をつけなかった。
真夜中に雨に濡れた街を見たいと言ったこともある。彼は大通りを丸ごと通行止めにし、車を一台も入れず、普段は賑やかな通りを私一人のために空けてくれた。
あの頃の私は、そんなふうに大切にされることが嬉しくてたまらなかった。自分は世界で一番幸せな女だと思い、それが愛なのだと、この先もずっと彼のそばで居られるのだと信じていた。
けれど父が亡くなった日、応答のなかった数え切れないほどの電話と、街角で彼が別の女性を抱き寄せる一枚の写真が、3年間の幻想を粉々にした。
長いことためらった末、私は冷たい床から立ち上がり、屋敷の一番奥へ向かった。そこには、セバスチャンが私を決して入れようとしなかった地下室がある。
重い鉄の扉を開けた瞬間、刺すような冷気が押し寄せ、全身の血が凍る思いがした。
地下室は、隅から隅までセリーナの痕跡で埋め尽くされていた。壁には彼女の肖像画が飾られ、棚には何気ない姿を撮った写真が整然と並ぶ。垢抜けない学生時代の写真も、彼女が気まぐれに描いた落書きもあった。ドレッサーには、彼女が愛用する香水や宝飾品が、一つひとつきれいに磨かれて大切にしまわれていた。
彼が私に注いだ優しさも、甘やかしてくれたことも、望みをかなえてくれたことも、私がヴィヴィアンだからではなかった。
――それは全部、私の顔がセリーナによく似ていたからだ。
冷たさが体の芯まで染み込み、胸のあちこちが細かく裂けるように痛んだ。それでも涙は一滴も出なかった。
もう、どうでもいい。
3年間ずっと騙されていたけれど、今度こそ彼の思いどおりにはさせない。
私は電話を手に取り、国外移住の手続きを始めた。
――セバスチャン。もう二度と会わないようにしましょう。
テーブルの上から署名済みの2通の書類を取り上げると、指先が彼の筆跡に触れた。
一通は離婚協議書。もう一通は人工妊娠中絶の同意書だった。
お腹には、まだ2か月にも満たない命がいる。かつて私はこの子にすべての希望を託し、この子がいれば彼の優しさを私につなぎ留められると信じていた。
けれど今は、この子さえも馬鹿げた存在にしか思えない。
――セバスチャン。決して手に入らないモノを、生涯思い続ければいい。
これから毎年、後悔に苛まれ、心が満たされる日など一度も来なければいい。
第2話
セバスチャンが帰ってきたとき、私は服や宝飾品を整理していた。
機嫌が悪くて、気晴らしに新しいものでも欲しがっていると思ったのだろう。彼は後ろから私を抱きしめ、温かい手のひらを重ねると、甘やかすような声で言った。
「数日後にオークションがあるんだ。一緒に行こう。欲しいものがあれば何でも買ってあげるから、埋め合わせをさせてくれ」
私は何も言わず、抱きしめられるままにしていた。愛想笑いをする気力さえなかった。
ふと、彼の視線が私の腰のあたりで止まった。先週まではわずかにふくらんでいたお腹が、元に戻っていることに気づいたらしい。
何か聞こうとした、そのときだった。彼の電話が鳴った。
相手は私の叔父だった。電話口から穏やかな声で、セリーナが海外から帰ってきたから、親族の集まりに来ないかと言う。
セリーナ。私の従妹のことだ。
私が答えるより早く、セバスチャンは二人で行くと返事をしていた。
父を埋葬してからまだ数日しか経っていないことも、私が悲しみの中にいることも、すっかり忘れている。私の気持ちなど少しも考えていなかった。
電話を切ると彼は私から腕を離し、金庫を開けて、豪華なオーダーメイドの宝飾品が入った箱を取り出した。そして、ずっしりと重い化粧箱を私の手に持たせる。
「二人はずっと会っていないだろう?これは帰国祝いだ。俺からだと言って、セリーナに渡してくれ」
私はただ黙って箱を見下ろし、小さくうなずいた。
夕食会は、叔父の家で開かれた。親族や友人たちで部屋はいっぱいになり、笑い声が絶えなかった。
私は自分の皿に盛られたステーキを見つめたまま、一口も食べなかった。妊娠してからつわりがひどく、肉を見るだけで吐き気がした。セバスチャンもこの2か月、私に付き合って菜食を続けてくれていた。
けれど今日は、そのことなど頭にないらしい。テーブルに並んだ手の込んだ野菜料理を、次々とセリーナのほうへ寄せていた。
夕食後、私たちはそのまま屋敷に泊まった。
夜更け、隣にあったぬくもりがそっと消えた。
それを予想していた私は起き上がり、寝室の扉を開けた。
「昔から、俺が愛しているのは君だけなんだ。ヴィヴィアンなんて最初から身代わりだった。今度こそ、俺のためにここに残ってくれないか」
セバスチャンの声には、私に向けたことのない真剣さと執着がにじんでいた。
「正気なの?あの子はあなたの子を妊娠しているのよ。こんなことしていいの?」
セリーナの声には、戸惑いとやるせなさが混じっていた。
「俺は正気だ」
彼は傲慢なほど確信に満ちた声で続けた。
「あの女は俺を愛している。何があっても、きっと俺のもとを離れたりしない」
その言葉に、私は小さく笑った。平らになったお腹を、そっと手でなでる。
――セバスチャン、あなたは本当に私のことを何も知らない。
私がこの偽物の愛にすがりつき、いつまでも離れられずにいると思っているのね。
でも、私はとっくに手放している。お腹の子も、あなたも。
絶対に離れないと信じていた女は、もうきっぱり去る準備をしている。
その夜、彼は寝室に戻ってこなかった。
翌朝、空がほのかに明るくなった頃、私は3年間の真心を注いできたこの屋敷を音も立てずに抜け出し、移住の申請書類を提出しに行った。
第3話
翌日の昼、久しぶりに会う友人からランチに誘われた。向かい合って静かに話すうちに、胸の奥にたまった憂鬱を少しでも晴らせたらと思っていた。
けれど運命は、私に残されたわずかな尊厳さえ踏みにじるつもりらしい。
顔を上げると、見間違えるはずのない二人が目に入った。仕立てのいいスーツを隙なく着こなした長身のセバスチャンと、その隣に肩を並べて歩くセリーナだった。
目が合った瞬間、セバスチャンは足を止めた。その目に驚きと、かすかな動揺が走る。彼はすぐにこちらへ来て、取り繕うように早口で言った。
「ヴィヴィアン、説明させてくれ。午前中はずっとオフィスにいたんだ。昼にたまたまセリーナと会って、一緒に食事をすることになった。それだけだよ」
無理に言葉を重ねるほど、後ろめたさが透けて見えた。
私が何か言う前に、セリーナが柔らかく微笑んだ。
「ヴィヴィアン、偶然ね。よかったらお友達も一緒にどう?人数が多いほうが楽しいわ」
断りづらい空気になり、私は小さくうなずいて、友人とともに二人のテーブルへ移った。
しばらくして、給仕が熱いスープの入った大きな器を運んできた。テーブルに置こうとしたそのとき、セリーナが「お手洗いに行ってくるわ」と立ち上がる。彼女の体がわずかに揺れ、腕が給仕の手首にぶつかった。
煮え立つスープが一気にこぼれた。半分はセリーナの手の甲にかかり、残りは私の前腕と肩をまともに襲った。
焼けるような痛みが皮膚を走り、ひりつく熱さが広がる。服の生地が火傷した肌に貼りつき、痛みで指先まで震えた。
けれど次の瞬間、セバスチャンの目も、取り乱した声も、すべてセリーナに向けられた。
「大丈夫か?!今すぐ病院へ行こう!」
友人は驚いて一瞬固まったものの、すぐにナプキンを取り、私にかかったスープを拭ってくれた。私の痛みまで感じているような顔をしていた。
赤く腫れ、熱を持った腕の広い傷を見下ろして、私は首を横に振った。胸の痛みに比べれば、火傷の痛みなどとうにかき消されていた。
――セバスチャンは、ここまであからさまに相手を選べるのね。
私も同じように火傷を負っている。しかも、私は彼の妻だ。
それでもセバスチャンは、セリーナが少し傷ついただけで我を忘れるのに、私が全身傷だらけになっても、気にかけようとさえしない。
私は痛みをこらえ、友人に付き添われて、セリーナが運ばれたのと同じ病院へ向かった。
診察した医師は眉をひそめ、火傷は範囲が広いうえに深く、皮膚の損傷もひどいため、処置を受けて安静にする必要があるとはっきり告げた。
セリーナの手の処置を見届けたセバスチャンが現れたのは、そのときだった。
医師の説明を聞き、私のほうが重傷だと知ったのだろう。ようやく彼の顔に、かすかな後ろめたさが浮かんだ。
彼は私のベッドのそばに来て、医師に言った。
「先生、彼女は妊娠しているので、薬も治療も慎重にお願いします」
医師が妊娠という言葉を聞いて怪訝な顔をし、今の私の状態を説明しようとした。
胸が締めつけられ、私はとっさに医師の腕にそっと触れ、小さく首を振って、その先を止めた。
傷の処置が終わると、私はベッドの背にもたれ、深い眠りに落ちた。
真夜中、病棟は静まり返っていた。ふと浅い眠りから目を覚ますと、暗闇の中、隣の病室から抑えた話し声がはっきり聞こえてきた。
「セリーナ、俺はずっと君のことを忘れられなかった。昔の俺は馬鹿な臆病者だった。自分の気持ちと向き合うのが怖くて、ヴィヴィアンにお前の面影を重ねていたんだ......」
セリーナはためらいがちに言った。
「あなた......ヴィヴィアンと結婚してもう3年目になるわね。あの子はあなたのことを愛しているわ。それなのに、そんな簡単に捨てるつもり?」
「ああ」
セバスチャンの声には迷いがなかった。
「俺が結婚したのは、あいつがお前に似ていたからだ。この3年間は妥協して、執着をなだめていただけ。もし君が戻って俺のそばにいてくれるなら、ヴィヴィアンと離婚する。そして、君を正式に俺の妻として迎える。俺には君しかいないんだ、セリーナ。ヴィヴィアンに跡継ぎを産ませたら離婚する。そうしたら、俺たちは結婚しよう」
一言一言が真剣で、決意は揺るぎないものに聞こえた。
私たちの3年間の結婚も、私が注いだ愛も、彼が本当に望む女性の帰りを待つ間の、つなぎにすぎなかったのだ。
私は冷たい病院のベッドに静かに座っていた。腕の火傷が波のようにずきずき痛んだが、胸の痛みには到底及ばなかった。
泣きも騒ぎもしなかった。ただ黙って毛布をめくり、ベッドを降りた。
夜は更け、廊下は冷たい。
私は音を立てずに歩き、やがて自分の病室へ戻った。耳にしたばかりの、あまりに残酷で身勝手な言葉を、すべて胸の奥に押し込めた。
その夜は一睡もできなかった。
翌朝、空が明るくなり始めた頃、病室の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたセバスチャンは顔をこわばらせ、目を血走らせていた。全身から剣呑な苛立ちが伝わってくる。彼は大股でベッドに近づき、身をかがめて私を真っすぐに見据えた。
「お前がやったのか?」
責めと疑いに満ちた、冷たく荒々しい声だった。私は顔を上げ、静かに彼を見返した。
彼は拳を握りしめた。目には私への不信と、見当違いの怒りが渦巻いている。
「昨夜、俺とセリーナの話を盗み聞きしたんだろう。それで腹を立てて、わざと人を雇って彼女を誘拐させたのか!?」
見たこともないほど凶悪で、冷酷な顔だった。
「言っておくが。セリーナに何かあったら、お前が誰だろうと、絶対に許さない」
第4話
セバスチャンはあらゆる人脈と権力を使い、取り憑かれたように街中を捜し回った。丸一日が過ぎて、ようやくセリーナを連れ戻した。
「セバスチャン、ヴィヴィアンは関係ないわ。これは誤解よ。あの子は何もしていない」
その短い一言で、彼の疑いも確信もたちまち崩れ去った。セバスチャンは硬直し、目から剣呑な光が消える。代わりに浮かんだのは、激しい衝撃と、遅すぎる後悔だった。
しばらくして、彼は私の病室に入ってきた。
「ヴィヴィアン、すまなかった......俺が早とちりした。疑って悪かった」
私がどれだけ弁解しても届かなかった言葉が、セリーナの一言であっさり覆された。
退院した私は、一人で、偽りの優しさに満ちた家へ帰った。高価で美しい贈り物を一つずつ集め、処分する物をまとめる箱に放り込む。惜しさも後悔もなく、ただ肩の荷が下りていくのを感じた。
嘘の上に築かれた愛情など、もういらない。
セリーナのことを片づけると、セバスチャンは急いで帰ってきた。
「ヴィヴィアン......昨日は本当にすまなかった、もう二度と嫌な思いはさせない。捨てたものは全部買い直すから、機嫌を直してくれないか?」
彼は慌てて埋め合わせをしようとした。高価な贈り物と優しい言葉でなだめれば、いつものように私の機嫌も直ると思っているのだろう。
けれど、私が静かなまま何の関心も示さないことが、泣き叫ばれるよりも彼を不安にさせたらしい。
さらに何か言いかけたところで、ポケットの電話がけたたましく鳴った。
電話口の慌てた声は、セリーナが急性白血病を発症したと告げた。容体は危険な状態で、一刻も早く骨髄の適合者を見つけなければ命に関わるという。
セバスチャンの顔から血の気が引いた。彼は迷わず病院へ駆けつけた。
セリーナの家族も、セバスチャンの親族も、皆が病院に集まって検査を受けた。しかし結果が返るたび、適合者ではないと分かる。希望は一つずつ潰えていった。
セリーナは日に日に衰弱し、病室の外には絶望が重く立ち込めていた。焦りに駆られたセバスチャンは、隅に立っていた私を振り返り、有無を言わせぬ口調で命じた。
「ヴィヴィアン、君も検査を受けろ」
すぐに、そばにいた年長の親族が心配そうに口を挟んだ。
「セバスチャン、何を言うんだ!彼女はまだ妊娠中だろう。そんな危険を冒させるわけには......!」
皆が私の体を、かつて私が宿していた子を気遣ってくれた。
瀕死のセリーナしか目に入っていないのは、セバスチャンだけだった。彼は表情を変えず、冷たく言い切った。
「子どもはまた授かれる。だがセリーナは一人しかいない。彼女の命の方が大事だ」
その言葉に、辺りはしんと静まり返った。
私は目を伏せたまま立ち尽くした。胸の奥にかすかに残っていた希望が、灰になって崩れていく。
彼にとっては、私の体も、子どもも、命さえも、セリーナの苦しみを少し和らげることには及ばないのだ。
私は言い返しも、抵抗もしなかった。言われるままに検査を受け、骨髄の検体を採られた。
数日後、結果が出た。私の骨髄は適合しなかった。
皆がそっと安堵の息をつく中、セバスチャンだけは落胆を隠せずにいた。
誰もが絶望しかけた頃、病院から唯一の適合者が見つかったという知らせが入った。
その日の午後、書斎の前を通りかかった私は、半開きの扉の向こうからセバスチャンと医師の低い声を聞いた。一言残らず耳に届き、そのたびに胸が深く傷ついた。
「極秘で検査を進めた結果、適合したのはボス、あなただけでした。急性白血病の治療は一刻を争います。ブルックスさんを救えるのは、ボスだけです」
次の瞬間、セバスチャンの迷いのない声が聞こえた。
「分かった。すぐに手術を手配して、できるだけ早くセリーナに移植してくれ。ただし、このことはくれぐれも内密に。ヴィヴィアンには知られるな」
医師はためらいがちに言った。
「ボス、骨髄の提供は体に大きな負担がかかります。術後も長い療養が必要です。本当によろしいのですか?」
「ああ。セリーナを救えるなら、このくらい大したことない。あとで海外に急用ができたと言って、しばらく家を空ければいい。セリーナが回復すれば、それでいいんだ」
扉の外で立ち尽くす私の指先は冷えきっていた。胸の中には、どこまでも澄んだ空虚さだけが広がっていく。
そういうことだったのだ。
セリーナのためなら、自分の健康さえ賭けて、振り返りもせずすべてを差し出せる。
それに引き換え、私と子どもは、彼の人生にいつでも捨てられる添え物でしかなかった。
――
手術の日、玄関ホールのガラス越しに明るい陽射しが差し込んでいた。
私は彼の前に歩み寄り、飾り気のない白い箱を差し出した。
「これ、あげる」
彼は、機嫌を直した私からの仲直りの贈り物だと思ったのだろう。ほっとした顔で受け取ったが、箱は開けなかった。
彼の頭は、手術室で待つセリーナのことでいっぱいだった。私にはろくに目も向けず、気のない調子で言う。
「出張から戻ったら、また二人で過ごせる時間を作るよ」
そう言い残して彼は足早に去った。
そして手術室の重い扉がゆっくりと閉まり、彼が追い求めていたすべてを向こう側へと閉じ込めた。
――
同じ頃、街外れの空港にいた私は、スーツケースを一つ引いていた。ビザはすでに取得済みだった。振り返って、遠い国へ向かう飛行機に乗り込んだ。
機体が離陸して雲を抜ける。眼下には、3年間の愛も、偽りのない私の気持ちも閉じ込めていた街が広がっていた。
私は、ようやく自由になれた。
彼に渡した箱の中に、贈り物は入っていない。
入っていたのは、中絶手術の施術証明書と、すでに署名がそろい、効力の生じた離婚協議書だけだった。