プロモーションを読み込み中...
あなたのいないこれからは、幸せばかり
私、香月詩乃(かつき しの)の支えで、葉室凌生(はむろ りょうせい)が再び紫苑音楽賞・最優秀男性アーティスト賞のトロフィーを手にしたあと、私たちは一夜にして、付き合い始めた頃のような熱を取り戻した。 彼が私を見る目には、前よりずっと強い独占欲がにじんでいた。 「もう男のアーティストは担当するなよ」 背後から私を抱きしめた凌生が、くぐもった声で続けた。 「妬くから」 私は「子どもみたい」と笑いながら言った。 けれど、胸の奥には甘い気持ちが広がっていた。 あの頃の私は、ただ愛されすぎているのだと思っていた。 ある日、彼の服のポケットから、「一生に一つしかオーダーできない」とうたうダイヤのリングを見つけるまでは。 その瞬間、涙があふれた。 8年付き合ってきて、ようやく凌生も私との結婚を決めてくれたのだと思った。 片膝をつく凌生の姿まで想像した。 けれど翌日、そのリングは新人の花房ひまり(はなぶさ ひまり)の指にはまっていた。 ひまりは私を見て、挑むような目を向けてきた。 その場に立ち尽くし、このところ凌生が理由もなく見せていた嫉妬や警戒を何度も思い返した。 あれは、深い愛情なんかじゃなかった。 自分を私に重ねていただけだった。 自分がとっくに一線を越えていたから、私のすることすべてが、自分と同じに見えていたのだ。
チャプター (1)
第1章
私、香月詩乃(かつき しの)の支えで、葉室凌生(はむろ りょうせい)が再び紫苑音楽賞・最優秀男性アーティスト賞のトロフィーを手にしたあと、私たちは一夜にして、付き合い始めた頃のような熱を取り戻した。
彼が私を見る目には、前よりずっと強い独占欲がにじんでいた。
「もう男のアーティストは担当するなよ」
背後から私を抱きしめた凌生が、くぐもった声で続けた。
「妬くから」
私は「子どもみたい」と笑いながら言った。
けれど、胸の奥には甘い気持ちが広がっていた。
あの頃の私は、ただ愛されすぎているのだと思っていた。
ある日、彼の服のポケットから、「一生に一つしかオーダーできない」とうたうダイヤのリングを見つけるまでは。
その瞬間、涙があふれた。
8年付き合ってきて、ようやく凌生も私との結婚を決めてくれたのだと思った。
片膝をつく凌生の姿まで想像した。
けれど翌日、そのリングは新人の花房ひまり(はなぶさ ひまり)の指にはまっていた。
ひまりは私を見て、挑むような目を向けてきた。
その場に立ち尽くし、このところ凌生が理由もなく見せていた嫉妬や警戒を何度も思い返した。
あれは、深い愛情なんかじゃなかった。
自分を私に重ねていただけだった。
自分がとっくに一線を越えていたから、私のすることすべてが、自分と同じに見えていたのだ。
第1話
「香月さん、どうしたんですか?急に黙っちゃって」
話の途中で言葉を止めた私を見て、アシスタントの牧瀬航平(まきせ こうへい)が目の前で手をひらひらさせた。
はっと我に返り、ひまりの指先から目をそらす。
ここは業界でも指折りのレコーディングスタジオだ。時間が延びれば、そのぶん料金もかさむ。無駄にできる時間はない。
どれだけ気が重くても、今は目の前にいる恋人の浮気相手を指導するしかなかった。
一度違和感に気づいてしまうと、それまで気にも留めなかったことまで次々と目につくようになる。
たとえば、ひまりの鼻にかけるような歌い方。凌生がよく使う歌い方とそっくりだった。
歌うときに目を閉じ、リズムに合わせて小さくうなずく癖まで同じだ。
けれど、これはガールズグループの曲だ。ずっと目を閉じて歌っていては、ステージで求められる表情づくりにも合わない。
それに、私を見る目。
いつもどこか、挑むような色が混じっている。
今までは、新人なりの反発心なのだと思っていた。
指導されるのが面白くないのだろう。それくらいは大目に見ようと、自分に言い聞かせてきた。
けれど今、これまでの小さな違和感をひとつずつつなぎ合わせてみれば、答えは嫌になるほど分かりやすい。
ひまりと凌生は、ただの先輩後輩じゃない。
深く息を吸い、胸の奥で渦巻くものを押し込めた。
そして、できるだけいつも通りの声で言う。
「花房さん。この曲はガールズグループ向けだから、凌生みたいにしっとり歌い込まなくていいの。もっと自分の歌い方で歌って」
ひまりの目に、一瞬だけ動揺が走った。
その直後、目元がみるみる赤くなる。
「そんなつもりじゃないです。ただ、いつもと違う歌い方も試してみたくて……」
「だったら、自分の歌い方でやって。わざわざ人の癖まで真似しなくていいから」
そう言った途端、ひまりの指先が小さく震え始めた。
結局、その日の収録は最後までうまくいかなかった。
ひまりのパートだけ、何度録り直してもOKが出ない。
普段なら、新人が落ち込まないよう声をかけ、励ましていたはずだ。
でも今日は、そんな余裕がなかった。
ずっとそばで見ていた航平も、私の様子がおかしいことに気づいたらしい。
スタジオ側と話をつけ、予定より早く収録を切り上げてくれた。
全員でスタジオを出ると、ひまりは真っ先に歩いていった。
建物の前には、彼女を待つ黒い送迎車が停まっている。
ひまりだけがさっさと乗り込み、残されたメンバーたちは冷たい風に首をすくめながらバス停へ向かった。
「ひまり、いいなあ。さっき持ってたバッグ見た?」
「見た見た。ベルシエの新作でしょ?あれ、紹介してもらうにはほかの商品だけで2000万円以上買わないと無理って聞いたよ」
「えっ、実家そんなにお金持ちなの?」
「違うって。本当にそんなお嬢様なら、わざわざこんな下積みから始めないでしょ。彼氏がお金持ちなんだって。しかも、かなり貢いでもらってるらしいよ」
その会話を聞きながら、私は何も言わなかった。
ただ、無意識に首元へ手を伸ばす。
そこには、ベルシエのネックレスがあった。
凌生からもらった誕生日プレゼントだ。
受け取ったときは、素直に嬉しかった。
同時に、少しだけ不思議にも思った。
凌生は昔からブランド品を馬鹿にしていたからだ。
「ブランドなんて、金持ちの見栄代だろ」
いつも、そんなふうに言っていた。
それなのに、どうして急にブランド物なんて選んだんだろう。
あのときは、それ以上深く考えなかった。
今になって、ようやく分かった。
私への誕生日プレゼントは、わざわざ私のために選んでくれたものなんかじゃない。
ひまりにバッグを買うため、購入実績を積むついでに買っただけだったのだ。
車に乗り込み、ミラーを見ながらネックレスを外すと、そのまま無造作に放った。
次の瞬間。
まるで何かを察したかのように、凌生から電話がかかってきた。
第2話
凌生だけに設定していた着信音が、車内に1分近く鳴り続けた。
切れる寸前になって、ようやく電話に出る。
「詩乃、なんでこんなに出るの遅いんだよ?
そっちに男でもいるのか?なんで黙ってるんだよ。まさか図星じゃないだろうな」
声には、隠しきれない焦りがにじんでいた。
昨日までの私なら、きっと優しくなだめていただろう。
けれど今は、これまで凌生が私の電話に出なかったときのことばかりが頭をよぎる。
仕事中だった。
着信に気づかなかった。
スマホをマナーモードにしていた。
電話に出られない理由なんて、いくらでもある。
それなのに、どうして凌生は、私のそばに男がいると思ったのだろう。
もしかして。
自分が私の電話に出なかったときは、そばに別の女がいたから?
全身から力が抜け、シートに背中を預けた。
「どうして、そう思うの?」
かすれた声で聞くと、凌生は黙り込んだ。
しばらくして、急に話を変える。
「今日、新人のレコーディングでずいぶん機嫌が悪かったって聞いたけど。どうしたんだよ?」
思わず鼻で笑った。
どうやら、ひまりが告げ口したらしい。
それで凌生は、私に文句を言うために電話してきたのだ。
「誰から聞いたの?」
「誰だっていいだろ。それより、本当なのか?」
「そう。もう新人の担当はしたくない」
「詩乃!」
凌生の声が強くなった。
「引き受けるって言っただろ。今さらやめるなんて言うなよ」
その言葉を聞いた途端、笑いたくなった。
もともと会社から任される予定だったのは、男性アイドルグループの企画だった。
けれど凌生が、私が若い男たちと近くで仕事をするのは嫌だと言って、ガールズグループを担当してほしいと頼んできた。
今になって思えば、全部ひまりのためだったのだ。
私に彼女を売り出させたかっただけ。
「凌生だって、紫苑音楽賞のステージで恋人がいるって公表するって約束したよね。あれは守らなかったじゃない」
今度こそ、凌生は何も言えなくなった。
そのまま電話を切り、車を走らせて家へ戻る。
案の定、誰もいなかった。
2度目の紫苑音楽賞を取ってからの半年、凌生はますます売れ、仕事の付き合いが山ほどあると言って、家に帰ってくる日も少しずつ減っていた。
気づいていなかったわけじゃない。
スーツから、甘い香水の匂いがしたこともある。
それでも、私にはずっと優しかった。
だから疑いたくなかった。
胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
両腕で自分を抱きしめるようにして、その場に崩れ落ちる。
涙が止まらなかった。
凌生。
私たちは8年付き合い、そのうち7年を同じ家で暮らしてきた。
凌生が大勢の人に注目される歌手になりたいと言ったから、私は自分のデビューのチャンスを手放し、プロデューサーの道を選んだ。
誰もが認める音楽の天才と呼ばれたいと言ったから、私が作った曲を凌生名義で世に出し、作詞・作曲のクレジットまで凌生名義にしてきた。
そこまでしても、たった1つ。
誠実でいてほしいという願いさえ、叶わなかった。
どれくらい泣いていたのか分からない。
窓の外がうっすら白み始めた頃、ようやく玄関のドアが開いた。
帰ってきた凌生の首筋には、いくつものキスマークが残っていた。
私を見ると、凌生は少し驚いたように足を止める。
「まだ会社行ってないのか?」
その視線が、足元に散らばった丸めたティッシュへ落ちた。
しばらく黙ったあと、凌生が口を開く。
「気づいたんだな……」
鼻をすすり、かすれた声で聞いた。
「何か、説明することないの?」
凌生の目に浮かんだのは、申し訳なさではなく、困ったような色だった。
まるで、聞き分けのない子どもに駄々をこねられているとでも言いたげな顔だ。
「詩乃。俺はもう、昔の俺とは違うんだよ。
ここまで売れた男が、いつまでも1人の女だけ見ていられるわけないだろ。
そんなことでいちいち目くじら立てるなよ。昨日だって、お前があんなことしたせいで、ひまりをなだめるのにどれだけかかったと思ってるんだ?」
第3話
信じられない思いで、目の前の凌生を見つめた。
まるで、初めてこの人の本当の顔を見たような気がした。
「凌生。今の地位まで、どうやって来たのか忘れたの?」
凌生は舌打ちすると、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「そうやって、いつまでもその話を持ち出されるのが一番うんざりするんだよ。曲を書いたのがお前だからって、それが何なんだ?」
灰を軽く落としながら、どうでもよさそうに言う。
「結局、誰かに歌ってもらわなきゃ曲にはならないだろ。
俺の顔と声がなかったら、お前の作ったメロディーなんて、パソコンの中に眠ってるだけのデータだ。
俺がお前の曲を売れる曲にした。お互いに得したんだ。どっちも相手に借りなんかない」
まだ涙の残る目には、凌生の輪郭がぼやけて見えた。
強く瞬きをして、こぼれそうになった涙を押し戻す。
「分かった。そこまで言うなら、別れよう」
8年も尽くしてきた。
それでも、浮気をするような人と一緒にいるつもりはない。
自分で差し出したものを、今さら惜しむつもりはない。失う覚悟だってある。
凌生の眉間に深いしわが寄った。
「よく考えてから言えよ。今の俺なら、1分でお前の月給くらい稼ぐんだぞ」
思わず、歪んだ笑いがこぼれた。
「もう恋人でもない人のお金なんて、どうでもいい」
凌生は少しだけ声をやわらげた。
「詩乃。ひまりとは遊んでるだけだよ。お前が本命なのは変わらない」
その言葉を聞いた瞬間、とうとう我慢できなくなった。
振り向きざま、思いきり頬を叩く。
「凌生。お願いだから、もう少しまともに生きて。
ひまりがいいなら、ちゃんと向き合ってあげなよ。まだ18歳なんだから。これからってときに、あんたの遊びに付き合わせるなんて最低でしょ」
叩かれた勢いで顔をそむけた凌生は、舌で頬の内側を押した。
「自分がこんな目に遭ってるのに、まだあいつの心配する余裕があるんだな。
でも残念。ひまりは、お前がどうなろうと気にしてないよ」
その言い方に引っかかり、胸がざわついた。
「どういう意味?」
凌生が口元を歪める。
「昨日、ひまりとキスしてるところを撮られた。あいつはもうすぐデビューだ。今スキャンダルが出たらまずい。
それで、俺のスマホを勝手に使って、前に撮った俺たちの動画を流したんだよ。
詩乃、ここ2、3日は外を歩くとき気をつけたほうがいい。俺のファンに顔を覚えられても、知らないからな」
唇を強く噛みしめた。
震える指でSNSのトレンドを開く。
一番上に、私の名前が出ていた。
コメント欄には、目を疑うような言葉が並んでいる。
【同じ事務所ってことは、仕事をエサに迫ったってこと?】
【凌生本人が流したってマジ?何か暴露したいってこと?】
【無理。推しに近づかないでほしい】
最初に報じられた写真に写っていた女性まで、私だと思われていた。
2度の受賞歴と圧倒的な人気もあって、批判はほとんど凌生に向かなかった。
でも凌生は知っている。
私だって、いつか裏方を離れて表に出たいと思っていることを。
今、自分の1stアルバムを準備していることも。
私にだって、悪い噂は致命傷になる。
まして、こんな形の恋愛スキャンダルなんて。
7年も一緒に暮らしてきた凌生には、私が何を気にしているのかすぐに分かったらしい。
目の前まで来ると、両手で私の頬を包んだ。
「もう26だろ。今さらデビューなんて考えなくていいって。
これからも俺の曲を書いてればいい。俺もそのうち遊び飽きるから。そしたら結婚しよう」
吐き気がするほど嫌で、すぐにその手を払いのけた。
「凌生。もう私たちに先はないよ」
凌生は呆れたように笑った。
どうやら本気で、私が恵まれていると思っているらしい。
「詩乃。あとで泣きついてきても、知らないからな」
第4話
腫れた目のまま会社へ入ると、周囲の視線が微妙に逸れていくのが分かった。
気づかないふりをして、そのまま社長室へ向かう。
ドアは少し開いていて、中から笑い声が聞こえてきた。
「凌生も相当だよな。恋人を矢面に立たせて、浮気相手をかばうなんて」
社長の声だった。
すぐに、別の声が続く。
「あれくらいやれなきゃ、ここまで売れないでしょう」
深く息を吸い、ドアを押し開ける。
笑い声がぴたりと止まった。
社長の顔にはまだ笑みが残っている。秘書は気まずそうに私へ会釈すると、そそくさと部屋を出ていった。
「来たか」
社長は椅子の背にもたれ、何でもないような口調で言った。
「座れよ」
私は座らなかった。
「社長。今、ネットでは私が仕事上の立場を利用して凌生に迫ったことになっています。きちんと否定させてください。それに、流出した動画のことも……」
「もういい」
社長は手を上げて遮った。
「その件は、お前が動かなくていい」
「でも、私、今1stアルバムの準備をしていて……」
社長は手元のマグカップを取り、ゆっくりひと口飲んだ。
「香月。アルバムの話は、少し先に延ばそう」
思いもしない言葉に、頭が真っ白になった。
「どうして……?」
社長はカップを置き、ため息をついた。
「会社で一番発言力があるのは、社長じゃない。いちばん稼いでくれる人間だ」
少し間を置いて、私を見る。
「今の青燈芸能で一番の稼ぎ頭は凌生だ。お前だって会社の人間だろ。あいつと正面から揉めて、損をするのは誰だと思う?」
言いたいことは、嫌になるほど伝わってきた。
どう言えば自分の立場を守れるのか考えているうちに、社長は机の引き出しから1枚の書類を取り出した。
そのまま私の前へ滑らせる。
「前にお前が取ってきた番組だけど、凌生が、ひまりのほうが向いてるって言ってる。だから出演はあの子に回すことにした」
そして、なだめるように付け足した。
「深く考えるな。会社のためだ」
目を落とした。
その仕事を取るために、私は3回も接待に付き合った。
胃を壊しかけるほど飲んで、ようやく決まった番組だった。
拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込んだ。
「納得できません。この番組は、私が先方と話をまとめた仕事です。勝手に出演者を変えるなら、法的に争います」
社長が勢いよく身を起こした。
「自分がまだこの会社と契約してるってこと、忘れたのか!」
私も負けずに声を上げる。
「8年前にマネジメント契約から作家契約に切り替えています。私がどの番組に出るかまで、会社に決める権利はありません!」
目の前の中年男が、信じられないものを見るような顔で私を見た。
その反応も無理はない。
自分でも驚いていた。
ずっと波風を立てないようにしてきた私が、まさか社長室で真正面から上司に言い返す日が来るなんて。
社長の顔が一気に険しくなった。
「出ていけ!明日から来なくていい!」
第5話
自分の荷物を抱え、ふらつく足取りで会社を出た。
行く当てもないまま、潮見野市の街を歩く。
2年間の練習生生活。
8年間の恋愛。
10年かけて積み重ねてきたものが、今日ですべてなくなった。
それでも、これ以上悪くなることなんてない。
そう自分に言い聞かせた、その直後だった。
突然、目の前が真っ暗になった。
鼻を刺すような強い匂いがして、そこで意識が途切れた。
次に目を覚ましたとき、いたのは人気のない廃工場だった。
両手も両足も縛られている。
目の前には、まだ高校生くらいにしか見えない4人の女の子がいた。
そのうち1人がスマホの画面と私の顔を見比べる。
「間違いない。こいつだ!」
その声を合図に、ほかの女の子たちも一斉に近づいてきた。
「ねえ、立場を利用して凌生くんに迫ったの、あんたでしょ?」
「ババアのくせに、凌生くんに近づくとか身の程知らず!」
「髪切っちゃおうよ。もう人前に出られないようにしてやればいいじゃん」
恐怖で思わず後ずさる。
そこでようやく分かった。
この子たちは、凌生のファンだ。
1人がハサミを手に近づいてくるのを見て、たまらず声を張り上げた。
「違う!無理やり迫ったりしてない!凌生とはちゃんと付き合ってるの!」
4人の動きが止まった。
真っ先に我に返った1人が、疑うように眉を寄せる。
「証拠あるの?」
バッグを目で示した。
「本人に電話する。今ここで確認して!」
半信半疑のまま、バッグを私の手元に置いた。
縛られた手をどうにか動かし、震える指でスマホを取り出して凌生の番号を押した。
1分近く呼び出し音が続き、ようやくつながる。
「もしもし?」
凌生の声が聞こえた。
向こうは静かだったが、かすかに女の笑い声が混じっている。
声が震えた。
「凌生。ファンの子たちにちゃんと説明して。私たちがどういう関係なのか」
2秒ほど、返事がなかった。
私が今どんな状況にいるのか、考えているような間だった。
やがて、凌生は笑った。
「今度は何なんだよ。俺たちに特別な関係なんてないだろ。
そこまで言わせたいのか?俺の仕事を何本か取ってきたくらいで、彼女になれると思った?
何年も俺を追いかけ回して、何回断られたと思ってるんだよ。いい加減、つきまとうのやめてくれない?」
頭の中が真っ白になった。
「凌生、何言って……!」
凌生は私の言葉を遮った。
「もういいって。今、お前の芝居に付き合ってる暇ないんだよ。
これ以上しつこくするなら、警察に相談するからな」
そのとき、ひまりの甘い声が聞こえてきた。
「凌生さん、あんまり香月さんを怒らせないでよ。私、これからも曲を書いてもらわなきゃいけないんだから」
「あいつの機嫌なんて気にする必要ないだろ」
そう言い残して、電話は切れた。
画面には通話終了の文字が出ている。
私はその場で固まったまま、何も言えなかった。
辺りが2秒ほど静まり返る。
次の瞬間、女の子たちが一斉に騒ぎ出した。
「最悪。やっぱりこいつが凌生くんに付きまとってたんじゃん!」
「キモすぎ!付き合ってるとか嘘ついて、マジでありえない!」
「新人いじめまでしてたんでしょ?ほんと許せない!」
反応する間もなかった。
髪を乱暴につかまれ、そのまま後ろへ引っ張られる。
後頭部がコンクリートの床にぶつかり、目の前が暗くなった。
続けて、拳や足が肩や腰、脚に次々と飛んでくる。
1人がしゃがみ込み、私の頬を叩いた。
左右の頬を7、8回続けて叩かれ、耳鳴りが止まらなくなった。
口の中には血の味が広がった。
「凌生くんにつきまとった罰だから!」
「ほんと恥知らず!」
罵声と一緒に、また頬を打たれる。
ハサミを持っていた子は髪をつかみ、めちゃくちゃに切り始めた。
身を守りたくても、抵抗したくても、手足を縛られていて動けない。
泣きながら、ただ訴えるしかなかった。
「本当に違うの。凌生が……あの人が……」
最後まで言わせてもらえず、また頬を打たれた。
「まだ凌生くんの悪口言う気?」
凌生に電話なんてしなければよかった。
最初は、髪を切るだけのつもりだったのに。
どれくらい殴られていたのか分からない。
ただ、痛かった。
体のどこもかしこも、痛くてたまらなかった。
ようやく誰かが言った。
「もう行こう。これ以上やったらマジでやばいって」
足音が少しずつ遠ざかっていった。
床に散らばった小石が背中に食い込む。
立ち上がろうとしたが、少し体を起こしただけで、また床に崩れ落ちた。
仕方なく、少しずつ這ってスマホへ手を伸ばす。
画面は割れていた。
それでも、どうにか動いている。
連絡先を一番下までたどり、そこにある名前を押した。
伊佐見郁人(いさみ いくと)。
今度は3秒もしないうちに電話がつながった。
「詩乃さん?」
咳き込むと、口から血がにじんだ。かすかに声を絞り出す。
「伊佐見さん……前に約束してくれたこと、まだお願いしてもいいですか?」
返事はすぐに返ってきた。
「もちろんです!」
息をするのも苦しかった。
「じゃあ……まず、助けに来てください」