第1章
私の名前は、高橋千紗(たかはし ちさ)。
祖母が亡くなったあと、私は両親に引き取られ、田舎から天城市へ引っ越した。
そこで初めて、一歳年下の妹・高橋結衣(たかはし ゆい)がいることを知った。
母の高橋真由美(たかはし まゆみ)は、私の手を握ると優しく笑って言った。
「千紗はお姉ちゃんなんだから、ゆいちゃんには譲ってあげるのよ。ね?」
私は小さくうなずいた。この家では、「お姉ちゃん」でいることが私の役目だと理解した。
その頃から、家族の中で一番後回しになるのは、いつも私だった。
それから数年後、弟の高橋陽斗(たかはし はると)が生まれた。
家族が増えるたび、私の居場所は少しずつ狭くなっていった。
大学二年の夏休み。
私は大学から久しぶりに実家へ帰った。
けれど、家の前で足が止まった。玄関のドアには、いつの間にかスマートロックが取り付けられていた。
そのことを私に知らせてくれた人は、一人もいなかった。
スマホはもう電池が切れていた。誰にも連絡できないまま、私は午後二時から夜十時まで、玄関先で家族の帰りを待ち続けた。
夜十時を過ぎて、ようやく帰ってきたのは、父の高橋恒一(たかはし こういち)、母の真由美、結衣、そして陽斗だった。
四人は大きなスーツケースを引きながら、旅行の思い出話に花を咲かせていた。おそろいのTシャツ姿の四人が、ひどく楽しそうに見えた。
その輪の中に、私の居場所だけはなかった。
玄関先に立ち尽くす私を見つけると、父は驚いたように目を丸くした。しばらく気まずい空気が流れた。
私の指紋を登録しようとして、登録画面を開いた父は、小さく舌打ちした。
「ったく……利用者登録は五人までか。もう追加できないな」
母はまるで大したことではないと言うように肩をすくめた。
「じゃあゲスト登録でいいじゃない。千紗が帰ってくるたびに、登録し直せばいいでしょ」
呆然とする私を見て、陽斗が悪びれもせず笑った。
「結衣姉ちゃんがね、ポチの鼻紋も登録したんだよ。
ほら、ポチも家族でしょ?だから、もういっぱいだったんだ」
犬のポチでさえ、この家では大切な家族だった。それなのに、私は最後まで「ゲスト」のままだった。
この家を出ていく理由としては、それだけで十分だった。
その夜、私は政府の機密プロジェクトへの参加申請書を提出した。
この家で、私の帰りを待つ人はいない。
だから、私はもうこの家に未練はなかった。
第1話
「そうだ、お前、今回は何日くらいいるんだ?」
父はスマホを操作しながら、スマートロックのゲスト登録をしていた。
「ゲスト権限は一週間までしか設定できない。とりあえず一週間だけ登録しておく。期限が切れたら俺に言え」
母は私の手を取り、指紋センサーへ指を当てさせた。
けれど、一度、二度、三度。
右手の指を一本ずつ替えてみても、認証は失敗したままだった。
「なんであんただけ認証できないの?」
母は少し苛立ったように眉をひそめた。
「ゆいちゃんも、はるちゃんも、一回で終わったのに」
母は昔からそうだった。
結衣には「ゆいちゃん」、陽斗には「はるちゃん」。
けれど私だけは、一度も愛称で呼ばれたことがない。
いつだって「千紗」か、「あんた」。それだけの違いなのに、幼い頃の私は、その呼び方の中にある小さな距離を、ずっと感じていた。
「左手でやってみて」
言われるまま親指を当てても、結果は同じだった。
母は私の手をぱっと放すと、うんざりしたようにため息をついた。
「もう、ほんと手がかかるわね。あとは自分でやって」
私は自分の手のひらを見つめた。
十歳になるまで、私は祖母と二人で田舎暮らしをしていた。
体の弱い祖母に代わって、畑を耕し、草を刈り、豚の世話をするのは、いつも私の役目だった。
祖母が亡くなり、この家へ引き取られてからも、それは変わらなかった。
姉だからという理由で、家事はいつも私の役目だった。食器を洗い、テーブルを拭き、床を磨く。毎日のように洗剤や水へ手を浸し続けた。
指紋が擦り減ったのか。それとも、手にできたタコのせいで認証できないのか。
今となっては、もう私にも分からなかった。
「ぼーっとするな」
父が急かすように言った。
「認証できなかったら、いちいち開けに来られないからな。あとで締め出されたなんて文句言うなよ」
私はポケットからティッシュを取り出し、手の汗を丁寧に拭った。
そして息を整え、もう一度センサーへ指を強く押し当てた。
ピッ。
電子音が鳴り、スマートロックが無機質な音声で告げた。
「ゲスト登録が完了しました」
それを聞くなり、父はスマホをポケットへしまい、私を見ることもなくリビングへ向かって歩いていった。
リビングでは、四人が旅行のお土産を楽しそうに仕分けしていた。
父の取引先にはお茶。母の職場には名産のお菓子。親戚には飾り物。
スーツケースの半分以上がお土産で埋まっていたが、それでも、私のためのものは一つもなかった。
私はかすれた声で尋ねた。
「……どこへ行ってきたの?」
どうして、私だけ知らなかったんだろう。
けれど、誰一人として答えなかった。
結衣はスマホを手に、母へ体を預けながら楽しそうに笑っていた。
「ママ見て!この家族写真、すごくよく撮れてるでしょ?」
父も画面をのぞき込み、目を細めた。
「ほんとだ。結衣、ポーズ考えるの上手いな」
画面に写っていたのは、四人だけ。それでも、みんなはそれを「家族写真」と呼んで笑い合っていた。
そのとき、陽斗が鼻をしかめた。鼻先を手でぱたぱたとあおぎながら私を見た。
「そういえばさ、千紗姉さん。
さっきから言おうと思ってたんだけど、お風呂入ってきたら?なんか汗くさいよ。自分じゃ気づいてないの?
女の人なのに、僕よりだらしないじゃん」
母もすぐに口を挟んだ。
「ほんとよ。あんた、田舎で覚えた生活習慣を、この家にまで持ち込まないでちょうだい」
七月の焼けつくような暑さの中、冷房もない廊下で、私は八時間以上、家族の帰りを待ち続けていた。
汗は止まらず、髪は頬にも首筋にも張りついていた。それでも、その場を離れることはできなかった。
入れ違いになってしまうのが怖かったから。
でも、帰ってきた四人は、誰一人として私のことを気に留めなかった。
私を見ても、「暑かったでしょう」と声をかける人はいなかった。「お腹空いてない?」と気遣う人もいなかった。
ただ返ってきたのは――「汗くさい」、その一言だけだった。
私は何も言わず、風呂へ向かった。
そのとき、ポケットのスマホが小さく震えた。
画面には、佐伯教授からのメッセージが表示されていた。
【今回の政府機密プロジェクトは特別な条件がある。参加すると生活も大きく変わるから、家族ともよく話し合ってから決めてほしい】
私はすぐに返信した。
【ありがとうございます。家族と相談して決めます】
けれど、それは嘘だった。
私は、誰にも相談するつもりなんてなかった。
この家で最後まで「ゲスト」だった私に、誰かの許可なんて必要なかった。
第2話
私は着替えを取りに自分の部屋へ向かった。
電気をつけた瞬間、思わず息をのんだ。
ベッドの上から通路まで、収納ケースが隙間なく積み上げられていた。
本棚からは、私の本やトロフィーがきれいになくなっていた。その代わりに飾られていたのは、陽斗の飛行機の模型だった。
クローゼットを開けても、中には結衣の季節物の服がぎっしり詰め込まれていた。
私はそのままリビングへ戻り、静かに口を開いた。
「……私の荷物は?」
「もう使わないと思って、処分したわ」
母はテレビから目も離さず、あっさりと言った。
「ゆいちゃんとはるちゃんの荷物が増えちゃってね。部屋に入りきらなかったから、あんたの部屋を借りただけよ。
どうせあんた、めったに帰ってこないんだから。空けておくより、有効活用したほうがいいでしょ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……じゃあ、私はどこで寝ればいいの?」
父は視線すら向けず、淡々と答えた。
「ベッドの上のケースを物置に運べば済む話だろ。それくらい自分で考えろ」
仕方なく物置へ向かうと、そこにはまだ十分な空きがあった。
収納ケースを何度も運び終えたころには、一度引いた汗がまた噴き出していた。
ようやく椅子に腰を下ろすと、父が眉をひそめた。
「お前、まだ風呂入ってなかったのか」
「まだ誰か入ってるから」
父は呆れたようにため息をついた。
「結衣も陽斗も、ちゃんと順番考えて風呂入ってるぞ。なんでお前だけ、いつも要領が悪いんだ」
言い返す気力も残っていなかった。
私はコップの水を一気に飲み干し、そのまま黙って待ち続けた。
ようやく風呂に入れたのは、それから一時間もあとだった。
浴室にはまだ湯気が立ちこめていて、熱気にくらりとした。
ドアの向こうから、母の声が響いた。
「ちゃんと洗いなさいよ。小さい頃みたいに、また適当に済ませるんじゃないわよ」
勢いよく降り注ぐシャワーが、頭から容赦なく全身を打った。
私は顔をぬぐった。
頬を伝うのがお湯なのか、それとも涙なのか、自分でも分からなかった。
この家へ引き取られたばかりの頃も、私が風呂に入れるのは、いつも結衣のあとだった。
当時はまだ、お湯の量にも限りがあった。
私の番になるころには、お湯はほとんど残っていなかった。
冷水で、急いで体を流すしかなかった。
そんなある日、親戚の集まりで、伯母が笑いながら私の耳をつまんだ。
「千紗、耳の後ろ真っ黒じゃない。ちゃんと洗ってる?」
その言葉を聞いた母は、不機嫌そうに箸を置いた。
「おばあちゃんのところで育ったからよ。衛生観念が全然なってないの」
違う。祖母のせいじゃない。
年老いた祖母は目も悪く、自分のことで精一杯だった。
私に身の回りのことまで教える余裕なんて、なかった。
母だって同じだった。
この家へ引き取られてからも、母はいつも結衣をお風呂に入れるのに付きっきりで、私のことは後回しだった。
体をどう洗えばいいのか、教えてもらったことは一度もなかった。
その日、家へ帰るなり、母は私の腕をつかんで浴室へ連れて行った。
勢いよくシャワーをひねると、熱いお湯を頭から浴びせられた。
「お母さん、熱い……!」
思わず身を引くと、母はさらに腹を立てた。
ナイロンタオルを握りしめ、力いっぱい私の体をこすり始めた。
「どれだけ恥をかかせれば気が済むの!そんなに汚くして、ほんと情けない子ね!」
それ以来、風呂に入るたび、私は頭の先から足の先まで、肌が赤くなるほど体をこするようになった。
そうすれば、もう怒られずに済むと思っていた。
けれど、母がその努力に気づくことは、一度もなかった。
風呂から上がると、父が声を潜めて言った。
「結衣と陽斗はもう寝てる。ドライヤーは使うな。うるさいから」
私は黙ってうなずき、タオルで髪を何度も拭いた。
パソコンを開き、申請書を入力し始めた。
濡れた髪から雫が手の甲に落ち、ひやりとした。
募集要項の注意事項には、提出期限は本日23時59分、出発は15日後、プロジェクト期間中は家族を含む外部との連絡が一切禁止されると記されていた。
私はその内容をしばらく見つめた。そして、迷うことなく提出ボタンを押した。
翌朝。
大学から渡されていた同意書を印刷し、父と母のところへ持っていった。
父は朝のニュースを見ていた。
「母さんに頼め。見れば分かるだろ、今忙しいんだ」
母は陽斗の夏休みの宿題を見ていた。小学校の算数の問題を、一問ずつ丁寧に丸をつけていた。
私は同意書を差し出した。母は目も通さず、さらさらと名前を書いた。
「読まなくていいの?」
「いいわよ」
母は手をひらひらと振った。
「どうせ、あんたの用事なんて、大したことじゃないでしょ」
結衣は友達とメッセージを送り合い、陽斗はまだ眠っていた。
出発まで、あと半月だった。その日が来れば、私はこの家とも、外の世界とも連絡を絶つことになる。
けれど、そのことを知る人は誰もいなかった。
そして、知ろうとする人も、誰一人いなかった。
第3話
数日後、両親の知人たちが何人か家へ遊びに来ていた。
私はキッチンで果物を洗いながら、リビングから聞こえてくる話し声が、自然と耳に入ってきた。
「恒一さん、本当に恵まれてるよな」
客の一人が感心したように言った。
「結衣は県内でも有名な大学に通ってるし、陽斗はまだ小学生なのに、科学コンテストで入賞したんだろ?育て方が違うなあ」
父は照れくさそうに笑った。
「いやいや、結衣も陽斗も、自分で頑張ってるだけさ。親が何かしたってわけじゃないよ。
……でも、千紗だけは昔から言うことを聞かなくてな。家から通える大学にしろって言ったのに、わざわざ北浜市まで行ってさ。
しかも、飛行機だかロケットだか、そんなような学科なんだ。俺には何の役に立つのか、さっぱり分からん」
私が専攻していたのは、航空宇宙推進工学だった。
佐伯教授はよく言っていた。
「君たちが造るのは、ロケットの心臓だ」
私たちの仕事は、ロケットエンジンや推進システムを支えることなのだと。
その言葉を、私はずっと誇りに思っていた。
けれど父の中では、名前すら覚える価値のない学科だった。
食事が始まると、向かいに座っていた女性が笑いながら私へ声をかけた。
「千紗、北浜市で一人暮らしなんでしょう?毎月どれくらいで生活してるの?
うちの娘も今年から北浜市の大学に通うのよ。
都会は何かとお金がかかるでしょう?どれくらい渡せばいいのか悩んじゃって」
「えっと……」
答えようとしたその瞬間、母は私の皿に海老を一尾のせながら、先に口を開いた。
「ゆいちゃんには月8万円渡してるの。
女の子には、ちゃんとお金をかけてあげないとね。足りない思いをさせたくないから、たまにお小遣いも送ってるのよ。
ちょっと物を買ってもらったり、優しくされたくらいで、変な男について行ったら困るでしょう?」
結衣は頬をふくらませ、甘えるように母の腕に抱きついた。
「もう、ママったら……この前だって、タブレット買ってくれるって言ってたじゃん。今学期だって、ちゃんと奨励金取ったんだから」
母は笑いながら結衣の頭をなでた。
「もう、ほんとゆいちゃんは甘え上手なんだから。近いうちに一緒に買いに行きましょうね」
私は何も言わなかった。ただ、今にも充電が切れそうなスマホへ目を落とした。
それは父が5年間使い、買い替えたあとに私へ回ってきたものだった。
私はそれをさらに2年間使っていた。
少し操作しただけですぐ動きが重くなり、バッテリーもほとんど持たない。
それでも、新しいものを買う余裕はなかった。私が毎月もらっていた生活費は、2万円だけだったからだ。
結衣と私、二人を大学へ通わせるだけでも大変だった。そのうえ、陽斗の塾代までかかっていた。
だから私は、姉として我慢するのが当たり前なのだと、ずっと思っていた。
向かいに座っていた女性は、思わず声を弾ませた。
「結衣、奨学金ももらったの?本当に優秀なのね」
結衣は少し照れくさそうに笑った。
「そんな大したものじゃないですよ。学内の奨学金ですし、まだまだです」
その言葉に、母は嬉しそうに目を細めた。
「この子ったら、ほんと謙虚なのよ。学内の奨学金とはいえ、2万円ももらえたのよ。
うちでは初めてじゃないかしら?少なくとも、千紗は一度ももらったことなかったものね」
陽斗は目を輝かせながら身を乗り出した。
「僕も将来、結衣姉ちゃんみたいに奨学金取る!」
父は笑いながら陽斗の頭をぽんと撫でた。
「期待してるぞ」
食卓は終始、笑い声に包まれていた。
私は皿の上の海老をそっと取り分け、足元で待っていたポチへ食べさせた。
私は海鮮アレルギーで、食べると全身に赤い発疹が出た。
痒みで夜も眠れなくなるほどだった。
それでも母は、そのことを今でも覚えていなかった。
スーツケースの中には、航空宇宙人材育成特別奨学金の認定証が入っていた。
全国でも限られた学生しか選ばれない給付型の奨学金だった。
けれど、それを取り出す気にはなれなかった。どうせ、誰も見ようとはしないのだから。
昔から、そうだった。
志望者内で上位1%の成績で大学に合格したときも、両親は私の合格祝いを開かなかった。
母は少し困ったように笑いながら言った。
「ゆいちゃん、一年後に受験でしょう?今あんたのお祝いなんかしたら、あの子だって気を遣うし、プレッシャーにもなるじゃない。
だから、もう少し待ちなさい。ゆいちゃんも大学に受かったら、そのとき二人まとめてお祝いしてあげるから」
私は黙ってうなずいた。
そして翌年、結衣も大学へ進学した。
両親はホテルに会場を借り、大勢の親戚や知人を招いて盛大に合格祝いを開いた。
私はせめて、高校の先生方をご招待したいとお願いした。
けれど母は困ったように眉を寄せた。
「今日はゆいちゃんのお祝いなんだから、先生を呼ぶのは、また別の機会にしなさい」
父も当然のように頷いた。
「そうだ。今日は結衣が主役なんだからな」
そういうことなんだ。結衣が主役なら、私は前に出てはいけない。
この家では、それが当たり前だった。
ようやく客が去った。
私は食器を洗い、床を拭き、一通り後片付けを終えると、ソファにもたれかかって酔いを覚ましていた父に声をかけた。
「お父さん、ゲスト権限を更新してほしいんだけど」
父は薄く目を開け、「ああ」と気のない返事をした。
その横では、結衣と陽斗がゲームをしながら賑やかにはしゃいでいた。
聞こえていなかったのかと思い、私はもう一度声をかけた。
父は面倒くさそうに眉をひそめると、ポケットからスマホを取り出した。
「分かったよ。また一週間延長しとけばいいんだろ」
スマホを操作しながら、父は何気なく尋ねた。
「そういえば、お前今回はずいぶん長くいるな。今年はバイトしないのか?」
私は答えようとした。
けれど父は、私の返事を待つことなく、小さくため息をついた。
「もういい歳なんだから、少しは家計の足しになることでもしろ。いつまでも家でぶらぶらしてないでさ」
私は唇を噛んだ。目を閉じた父をしばらく見つめ、それから静かに背を向けた。
翌朝。
洗面所へ向かおうとすると、父がこめかみを押さえながら私を呼び止めた。
「千紗、昨日はちょっと飲みすぎた」
父は気まずそうに視線を逸らした。
「言い方が悪かったな。別に、お前を追い出そうって意味じゃない」
私は小さくうなずいた。
「分かってる」
分かっていた。あれは酒の勢いで漏れた本音だった。
私は、これまでの長期休暇と同じように、外でアルバイトをしているべきだった。
この家には、私の居場所なんて最初からなかったのだ。
第4話
出発の前日。
その日の朝、母が珍しく私を呼び止めた。
「これから買い物に行くんだけど、あんたも一緒に来なさい」
私は断ろうとしたが、母は何気ない口調で言った。
「その服、もうずいぶんくたびれてるでしょう。新しいのを一着買ってあげるわ」
私に?一瞬、聞き間違いかと思った。
母に服を買ってもらったのは、高校へ入学するときの制服が最後だった。
期待しないようにしながら、私は黙って車に乗り込んだ。
ショッピングモールへ着くと、私はセール中の秋冬物売り場へ向かった。
プロジェクトの現地は風が強く、一年を通して冷え込みが厳しいと聞いていた。
佐伯教授からは、暖かい服を多めに持ってくるよう事前に連絡が来ていた。
ようやく一着のマウンテンパーカーを見つけた。
値札を見た瞬間、思わず手が止まった。
16,980円。
母はその値段を見るなり、さりげなく視線をそらした。
「今は夏なんだから、半袖でも見たら?」
そう言うと、近くにあった白いTシャツを手に取った。
「これなんていいじゃない。シンプルだし。
ゆいちゃんの分と一緒に買えば、ちょうど二枚で割引になるから」
値札を見ると、990円だった。
結衣の服はどれも高かった。あと990円分買えば、ちょうどまとめ買い割引が適用される金額だった。
そのあとも母たちは楽しそうに店を見て回っていた。
私は買い物袋を抱えたまま、黙ってあとを歩いた。
店内の冷房は効きすぎていた。
腕をさすってみても、体は少しも温まらなかった。
やっぱり寒かった。
店内を歩き回るうちに、陽斗は飽きてしまったらしい。
「ねぇ、お小遣いちょうだい。アイス買ってくる」
私が両手いっぱいに買い物袋を抱えているのを見ると、陽斗は慣れた手つきで私のリュックから財布を取り出した。
「ちょっとアイス買ってくるね。すぐ戻ってくるから」
そう言うなり、陽斗は駆けていった。
しばらくして戻ってきた陽斗は、両手に四つのアイスを抱えていた。
そこに、私の分はなかった。
陽斗は頭をかきながら、少し気まずそうに笑った。
「あっ、ごめん。みんなの分を持ったら、もう手いっぱいで……もう一回買ってこようか?」
父が振り返り、眉をひそめた。
「お前、もういい歳なんだから、陽斗を使いっ走りみたいにするな」
私は陽斗へ小さく首を横に振った。
「いいよ。私はいらないから」
陽斗は首をかしげ、私の顔をのぞき込んだ。
「あれ、千紗姉さん……目、なんか赤くない?」
私はそのまっすぐな瞳を見返した。何も言えなかった。
けれど陽斗はそれ以上気にも留めず、父のあとを追いかけていった。
その夜は、家族で近くの料理店へ食事に出かけた。
料理を注文しながら、母は父に言った。
「ゆいちゃんは鮭の塩焼きが好きで、はるちゃんは唐揚げが好きだから、ちゃんと頼んでね」
父はうなずいた。
「分かってるよ」
私は湯のみを両手で包んだまま、黙ってお茶を口に運んでいた。
食事を終えると、佐伯教授へのお土産を買おうと思い、財布を開いた。
その瞬間、胸が冷たくなった。
財布に入れていた現金が、きれいになくなっていた。
カフェで十日間、毎日十時間近く働いて、ようやく貯めたお金だった。それが、一瞬で消えていた。
私は思わず陽斗を見た。
陽斗は目を泳がせると、そっと母の後ろへ隠れた。
私はできるだけ声を抑えて尋ねた。
「……私のお金、盗った?」
母はすぐに陽斗をかばうように前へ出た。
「そんな大きな声出さないの!『盗った』って何よ!はるちゃんはあんたの弟でしょう?少しくらい使っただけで、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
私は陽斗へ向かって手を差し出した。
「返して」
その一言で、陽斗は「わっ」と声を上げて泣き出した。
「ゲームのソフト買っちゃった……!
ママにダメって言われたけど、どうしても欲しかったんだもん……!」
今度は父まで顔をしかめた。
「お前は姉なんだから、それくらい大目に見てやれないのか。たかがその程度の金で、弟を泣かせるなんて何を考えてるんだ!外で騒ぐな。みっともない!」
差し出したままの手が、宙で止まった。
父は泣きじゃくる陽斗を抱き寄せた。
母は涙を拭いながら優しく声をかけ、結衣も飴を差し出して陽斗をあやしていた。
気づけば、四人は自然と互いに寄り添っていた。
あれが、家族なんだ。じゃあ、私は……?
父は私を振り返ると、冷たく言い放った。
「少しは姉らしく振る舞え!」
そう言い残すと、陽斗を抱いたまま歩き出した。母と結衣も何も言わず、そのあとをついていた。
また私だけが、その場に取り残された。
現金はなくなり、スマホの充電も切れかけていた。私は歩いて帰るしかなかった。
家まで、およそ二十キロ。
途中で道を間違え、遠回りをしながら、何度も立ち止まっては歩いた。足の裏にはいくつも水ぶくれができ、それが潰れても歩き続けた。
家へたどり着いた頃には、歩き始めてからもう八時間近くが経ち、日付はとっくに変わっていた。
マンションの管理人さんは、私を見るなり顔色を変えた。
「大丈夫ですか?顔色が真っ青ですよ」
私は無理に笑みを作った。
「平気です」
そのうち慣れる。これから先も、一人で生きていくしかないのだから。
翌朝、まだ午前五時だった。
まだ充電しきれていないスマホをバッグに入れ、スーツケースを引いてリビングを横切った。
家族はまだ誰も起きていなかった。
ポチだけが目を覚まし、小さく鳴きながら私のあとをついてきた。
私はしゃがみ込み、ポチの頭をそっと撫でた。
「見送りに来てくれて、ありがとう」
もちろん、ポチには言葉の意味なんて分からない。それでも嬉しそうに尻尾を振っていた。
私は静かに玄関の扉を閉めた。
北浜空港に着いたのは、午前十時だった。
私は佐伯教授たちと合流すると、プロジェクトのメンバーもすでに集まっていた。
佐伯教授は私たちを見回すと、口を開いた。
「このあとスマホは預かる。家族に連絡がある人は、今のうちに済ませておいてくれ」
私はスマホを手に取り、画面をつけた。
LINEの家族グループには、母からメッセージが届いていた。
【今日でゲスト権限が切れるわよ。更新してほしかったら、まずはるちゃんに謝りなさい】
【お姉ちゃんなんだから、そんなことで怒るものじゃないわ】
私は返信しなかった。
そのまま電源を切ると、画面がゆっくりと暗くなっていった。
頭を下げてまで更新してもらうくらいなら、もういらない。