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私が愛したのは、面影だけだった
貧しい家庭で育った学校一のイケメン、三宮遊助(さんのみや ゆうすけ)を「囲って」もう4年。船越真里亞(ふなこし まりあ)は髪の1本に至るまで大切に慈しんできた。 あらゆる伝手を使って全国で腎臓のドナーを探し回り、死神の手から彼の母親の命を取り戻したこともある。 西京市の名門お嬢様学校に手を回し、妹を入学させ、立派な令嬢へと磨き上げた。 さらには惜しみなく大金を注ぎ込んで起業を後押しし、遊助を新進気鋭の実業家へと押し上げてみせたが……
チャプター (1)
第1章
貧しい家庭で育った学校一のイケメン、三宮遊助(さんのみや ゆうすけ)を「囲って」もう4年。船越真里亞(ふなこし まりあ)は髪の1本に至るまで大切に慈しんできた。
あらゆる伝手を使って全国で腎臓のドナーを探し回り、死神の手から彼の母親の命を取り戻したこともある。
西京市の名門お嬢様学校に手を回し、妹を入学させ、立派な令嬢へと磨き上げた。
さらには惜しみなく大金を注ぎ込んで起業を後押しし、遊助を新進気鋭の実業家へと押し上げてみせたが……
第1話
結婚式を目前に控えたある日、真里亞は思いがけない光景を目にする。遊助の幼馴染である南沢園子(みなみざわ そのこ)が彼に縋りつき、儚く泣き崩れていたのだ。
「遊助さん、真里亞さんのこと好きじゃないって知ってるの。ずっと私のことを想ってくれてたことも。あの頃、私たちあんなに仲が良くて……あと一歩で付き合うところだったのに。
でも、おば様が病気になって、優花里ちゃんも学校に通えなくなって、追い詰められて真里亞さんの恋人になるしかなかったんでしょ?
あの人はもう何年もあなたを縛りつけてきた。今のあなたはもう成功して、昔とは違うんだから、どうして無理して結婚する必要があるの?
私、あの人があなたと結婚するなんて絶対に許せない。本当に結婚するつもりなら、私、今日ここから飛び降りるから!」
30階建てのオフィスビル。その高さを見ただけで、遊助の母、三宮福子(さんのみや さちこ)と妹の三宮優花里(さんのみや ゆかり)は青ざめ、慌てて遊助を説得し始めた。
「遊助、園子は私が小さい頃から見てきた子よ。ずっと将来はうちのお嫁さんになる子だと思ってきたの。あの子を裏切るなんてできないでしょう!」
「そうだよお兄ちゃん、真里亞さんと別れてよ。園子はあんなにお兄ちゃんのこと好きなんだから、あたし、園子にお義姉さんになってほしいの」
「ねえ、何か言ってよ遊助さん!今のあなたなら真里亞さんから逃げられるはずなのに、どうして別れないの?
それなのに結婚までするなんて!まさか……あの人のこと好きになったの?もしそうなら、私、死んでやるわ!」
その混乱した空気の中、遊助はただ黙り込んでいた。
いつまで経っても答えが返ってこないことに、園子の感情はついに限界に達し、身を翻して飛び降りようとした。
その瞬間、遊助は咄嗟に園子の手をつかんだ。低く沈んだ声で言った。
「……わかった。結婚はやめだ」
園子の顔にぱっと喜びが広がる。
「やっぱり遊助さんの心には私がいたのね。じゃあ、式当日に姿を消してほしいの。真里亞さんに恥をかかせてやりましょう。長年あなたを縛りつけてきた仕返しよ」
その言葉に、その場にいた全員の顔色がわずかに変わった。
遊助がすぐには頷かないのを見て、園子はまた目を赤くした。
「遊助さんもあの人のこと嫌いなんでしょう?これさえ約束してくれたら、もう二度と馬鹿な真似はしないから」
我に返った福子と優花里も、そこに加わって説得を始めた。言葉の端々に滲むのは、式から逃げてしまえばいい、それが真里亞へのいい薬になる、という思いだった。
遊助は眉を寄せたまま、何を考えているのか誰にも分からなかったが、やがて重い口を開き、頷いた。
福子と優花里の顔がぱっと輝き、園子もほっと息をつくと、涙に笑みを滲ませながら胸に飛び込んだ。
「これで約束ね。真里亞さんが絶望する顔、早く見てみたいわ」
その一部始終を、真里亞は見ていた。だがその場に踏み込むことはせず、何食わぬ顔で階段を下りていく。
車に戻ると、後部座席にしばらく座り込み、やがて母に電話をかけた。
「……やっぱりお母さんの言う通りだった。遊助がどんなに優馬に似てても、優馬じゃない。この結婚、やめるわ」
「はぁ……優馬が亡くなってもう何年も経つのに、あなたはずっと身代わりを探し続けてる。遊助を囲って、思い出を懐かしむだけならまだいい。でも本当に結婚するなんて、そこまでする必要ないでしょう」
母のため息を聞きながら、真里亞は静かに視線を止めた。車窓の向こうに、遠い昔の光景を見ているかのように。
物心ついた頃から、隣に住む2つ年上の少年、藤牧優馬(ふじまき ゆうま)を知っていた。幼馴染として、あどけない子供の頃から淡い恋心を抱く年頃まで、いつも一緒にいた。
幼い頃から反抗的で、誰もが手を焼く小さな悪魔だった真里亞に対し、優馬は周囲でも評判の、穏やかで品のある少年だった。どんな厄介事を起こしても迷わず後始末をし、いつも庇ってくれた。
真里亞もまた、生涯でもっとも熱く、もっとも真っすぐな想いのすべてを注ぎ、彼のお嫁さんになるのだと心に誓っていた。
優馬の22歳の誕生日、ふたりは婚姻届を出しに役所へ行く約束をしていた。だが朝から晩まで役所で待っても、優馬は現れなかった。届いたのは、道中で交通事故に遭い、亡くなったという知らせだけだった。
その日を境に、世界は暗闇に沈んだ。現実を受け入れられず、狂ったように面影を探し続けた。
どこか似た横顔、澄んだ瞳、優しい声。優馬の面影を少しでも宿す人なら、誰であろうと近づかずにはいられなかった。
そして4年前、バーでアルバイトをしていた遊助と出会った。体つきも顔立ちも優馬に驚くほどよく似た青年を一目見た瞬間、真里亞は彼を自分のそばに繋ぎ止めようと決めた。
家庭の事情を調べ上げ、金銭を条件に交渉し、恋人という立場を手に入れた。それ以来、もう他の代わりを探すことはなかった。
周囲の誰もが、本当に恋をしたのだと思っていた。だが真里亞だけは知っていた。遊助の顔に重ねて見ていたのは、ただ優馬の面影だったということを。
すべて分かっていながら、自ら作り上げた幻に溺れていた。現実と幻想の境目を見失いかけるほどに。
だが今しがたの茶番を目の当たりにして、ようやく目を覚ました。
身代わりは、所詮身代わりでしかない。
真里亞は掠れた声で言った。
「お母さん、数日したらアイルランドへ行くわ。向こうに永住して、一緒に暮らしましょう」
そして残りの人生を、優馬を偲ぶことに捧げよう。
電話を切った後、ひとりで新居に戻ると、デザイナーが100着を超えるウェディングドレスを用意して何時間も待っていた。だが凝った意匠の純白のドレスの数々を見ても、もう何の興味も湧かない。気だるげに手で制した。
「もう選ばなくていいわ。この結婚、やめにするから」
次の瞬間、扉が開いて遊助が姿を現した。瞳は澄み、冷たい光を湛えている。
「何を言ってるんだ?」
第2話
まさかこんなに早く戻ってくるとは、真里亞も思っていなかった。けれどこの関係において、常に主導権を握るのは彼女の方だ。だから何も隠すことなく、堂々と結論を告げた。
「結婚はやめるって言ったの。それが何?」
素っ気ない表情を見て、遊助はいつものように少し拗ねているだけだと思った。本気にすることもなく、上着を脱ぎながら、冷めた声で返した。
「しつこく結婚を迫ってきたのはお前だろ。なのに今度は結婚しないって、また何のつもりだ?」
遊助は、部屋の中で神妙な顔をして座っているデザイナーたちを一瞥すると、1着のドレスを無造作に指差した。
「これにしろ」
真里亞が彼の指先を追うと、選んだドレスは数日前に動画で見て気に入っていたものと同じだった。少し意外に思いながらも、深くは考えずただ一瞥して尋ねる。
「今日、どこに行ってたの?」
「仕事だ。安心しろ、1日1回抱くって約束は、忘れちゃいない」
顔色ひとつ変えずに嘘をつくと、遊助は身を屈めて抱き上げ、寝室へ運ぼうとした。だが真里亞はいつになく押しのけた。
「しばらくはいらない。ゲストルームで寝て」
手がぴたりと止まる。瞳に浮かんだのは、まるで初めて見るような、信じがたいという色だった。
「前はいつも欲しがってきただろ」
真里亞は自嘲するように笑った。
「まあ、あなたよく言ってたじゃない。無理強いしてもいいことはないって」
遊助の瞳がわずかに翳る。しばしの沈黙の後、真里亞をそっと下ろした。
「好きにしろよ」
そう言い残すと、振り返ることもなく階段を上り、ゲストルームへと消えていった。
翌朝、ずいぶん早くに目を覚ました。使用人がコーヒーを運びながら、ついでのように様子を報告する。
「三宮社長は朝早くから運動にお出かけになりました。お戻りをお待ちになって、ご一緒に朝食を召し上がりますか?」
「後で出かける用事があるから、待たなくていいわ」
朝食を済ませると、車を出して永住手続きを終わらせ、見晴らしのいいオープンカフェに入って景色を眺めることにした。しばらくスマホをいじってからふと顔を上げると、遊助の姿が目に入った。
園子に腕を引かれ、階下のタピオカ店へと入っていくところだった。2人分のミルクティーを注文する際、1つはホットにしてくれと頼んでいる。
園子が甘えるように「アイスがいい」とねだると、彼は仕方なさそうにその頭を撫でた。
「駄目。今日は冷たいのはやめとけ。体を冷やすだろ」
さすが幼馴染ということか。そこまで優しくできるなんて。
真里亞は瞬きも忘れて2人を見つめ続けた。園子の靴紐がほどけると、自ら屈み込んで結び直してやる。一口飲みたいと言えばためらいなく差し出し、ショーウィンドウの服を見て歓声を上げれば、店に連れて行って1着ずつ試着させる。
まるで恋人同士のように寄り添う2人の姿を見て、初めて本当の遊助を知ったような気がした。
好きな相手の前でなら、いつも冷たい顔をしているわけではなく、笑って冗談を言い、相手とふざけ合って変顔をするのも甘い眼差しで見つめるのだ。
彼はわざと距離を置いたり、何にも無関心なふりをしたりせず、好みや趣味をきちんと覚えていて、服を買うときも似合うものを選んでやる。
どんな話題を振られても、適当な相槌で済ませず、話を弾ませて会話を途切れさせない。
園子の前でだけ、演じてきた冷たい仮面を脱ぎ捨て、素の自分に戻っていた。生き生きとした活力と、人を愛する力に満ちた、本来の遊助に。
それは、真里亞と一緒にいる時には決して見せることのない、心から楽しそうな本当の姿だった。
真里亞はようやく悟った。愛することと愛さないことの間には、絶望的な隔たりがあるのだと。
それはお金では、決して埋められないものだった。
第3話
2人がケーキ店に入っていくのを見送った後、真里亞も席を立ち、モールをぶらつくことにした。
気に入ったワンピースを見つけてカードを出そうとしたその時、背後から聞き覚えのある声がした。
「そのワンピース、いただくわ。包んでちょうだい」
振り向くと、挑発するような眼差しの園子と目が合った。この幼馴染が一筋縄ではいかないと知っていた真里亞は、淡々と口を開いた。
「私が先に目をつけたの。それに結構なお値段よ。他のデザインにしたら?」
店員は園子の服装を一瞥すると、空気を読んで言葉を継いだ。
「お客様、申し訳ございませんが、こちらのお洋服は少々お値段が張りますので……もしよろしければ、下の階の量販店などいかがでしょうか」
その瞬間、店内の視線が一斉に集まった。園子の顔はかっと赤く染まり、瞳には羞恥と怒りが滲んだ。
「人を見た目で判断するわけ!?私、これが気に入ったの。今すぐ払うから!」
そう言うと、遊助から渡されたブラックカードを店員に投げつけた。
真里亞はそのカードを一瞥し、口をぽかんと開けて見守る野次馬にも目をやってから、自分のカードを差し出した。気前のいい新規客と、先に商品を選んでいた客との板挟みになり、店員はひどく困り果てていた。
どう収拾をつければいいのか分からずにいたその時、声が響いた。
「どうした?」
それを見た園子はすぐさま哀れっぽくすり寄り、先手を打って訴えた。
「遊助さん、今日私の誕生日でしょ。自分へのプレゼントにワンピースを買おうと思ったの。そしたら真里亞さんも同じのを選んでて……私が先にお金払おうとしたのに譲ってくれなくて、しかもお金なんてないくせにって言われたのよ」
遊助の顔が、さらに冷たくなった。そのワンピースにちらりと目をやり、静かに声を落とした。
「真里亞、家にも服はたくさんあるだろ。何もこれを取り合う必要はないだろう。それに、こっちのほうが園子には似合ってる」
そして、彼は園子のほうを向く。
「これだけじゃ足りないだろ。もっと選べ、俺が払う」
その言葉を聞いた園子は、まるで戦に勝った将軍のように得意満面になった。ワンピースにはもう見向きもせず、他のデザインを何十着も抱えて戻ってくる。
店内のあちこちから、羨望のざわめきが上がった。
「ここまで甘やかしてもらえるなんて、いいなあ。私にもあんな彼氏、誰かちょうだいよ」
「ちょっとあの女見てよ、さんざん選んでたくせに1着も買わないの?全身ブランド物だけど、まさか偽物じゃないでしょうね。お嬢様気取りしちゃって」
そんな囁きが耳に入っても、真里亞はもう釈明する気にもなれなかった。扉を押して立ち去ろうとした瞬間、モール中に警報音が鳴り響いた。
上階から人の群れがなだれ込むように降りてきて、「火事だ」と叫びながら四方八方に逃げ惑う。店内も一瞬にして混乱に陥り、真里亞は人波に押されて床に倒れ込んだ。
無数の足が体を踏みつけ、青黒い痣を残していく。あまりの痛みに涙が溢れ、両手で必死に頭を庇った。
ふと目を上げると、遊助が園子を胸に抱き込むようにして、安全な場所へと人混みをかき分けていく姿が見えた。
生存本能に突き動かされ、真里亞は声を嗄らして、何度も彼の名を呼んだ。その声に振り返った遊助は、踏みつけられて見る影もない真里亞の姿を目にした瞬間、目を見開いた。
すぐさま彼女を助けようと引き返しかけたその瞬間、園子に腕を引き戻された。何を言ったのかは分からないが、しばし躊躇った後、彼女を庇いながら背を向けて去っていった。
人波の中に消えていく2人の後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。真里亞の心の底に残っていた最後の期待が、音を立てて崩れ落ちていく。
狭く押し潰されそうな空間では、空気さえも淀みきっていた。踏まれ、血の滲む体を引きずるようにして、痛みを堪えながら少しずつ隅へと這っていった。
壁を支えにして血に染まった手をつき、ようやく立ち上がる。押し寄せる人波に流されるようにして出口へと辿り着いた頃には、全身の力を使い果たしていた。
広場に押し出され、ようやく安全を確認できたところで、力尽きたように地面に倒れ込み、荒い息を繰り返した。
そう遠くない場所から、聞き覚えのある切迫した声が、ざわめく群衆の中を縫うように聞こえてきた。
「園子、ここで待ってろ。動くなよ、俺はもう一度中に戻る」
園子を落ち着かせると、遊助はモールへ引き返そうと振り向いた。その視界に、傷だらけの真里亞の姿が飛び込んできた。
2人の視線が、再び宙で交わる。
けれど今度、真里亞の瞳に残っていたのは、何の感情も映さない静けさだけだった。
第4話
真里亞を連れ帰る車中、2人はしばらく無言のままだった。
長い沈黙の後、遊助はようやく掠れた声で、ぽつりぽつりと説明を始めた。
「今日は園子の誕生日だったんだ。あいつ、子供の頃、学校でパニック状態の人波に巻き込まれ、将棋倒しになったことがあって、その時の心の傷が今も癒えてないんだ。お前を見捨てるつもりはなかった。まず安全な場所に連れて行ってから、戻ってお前を迎えに行くつもりだったんだ」
4年もの付き合いの中で、冷たい態度や皮肉には慣れきっていた真里亞にとって、こうしてわざわざ弁解するような遊助の姿はどうにも落ち着かなかった。
結局、真里亞の助けを求める声を無視したのは、園子のほうが大切だったからにすぎない。
それは理解できる。
それに、もうすぐここを去るのだから、今さら気にすることでもない。
彼女は軽く頷いた。
「分かったわ。そんなに説明しなくていい。じゃないと、私のこと好きになったのかと勘違いしちゃいそう」
遊助の顔がすっと険しくなり、口調も再び冷たいものに戻った。
「婚約者としての責任を果たせなかったってだけだ。愛情とは関係ない」
責任、か。
真里亞は小さく息をついた。
もうすぐ、もうすぐこの取引も終わる。遊助に課せられた責任も、自分の心を縛っていた枷も、間もなく外れる。
家に着くと、遊助は救急箱を持ってきて、傷の手当てを始めた。痛みを与えまいとしてか、傷口を消毒する手つきは驚くほど繊細だった。
いつもとはまるで違う、この優しく丁寧な態度に、少なからず戸惑いを覚えた。
ほどなくスマホが鳴った。表示された名前が園子だと分かると、遊助はすぐさま立ち上がって電話に出た。
「玄関の外で足音がするのか?ドアの鍵をしっかり閉めておけ、怖がらなくていい、誰か向かわせる」
真里亞も画面の名前をちらりと見て、微かに目を伏せた。
電話を切った後もその場を動かず、綿棒を手に取る遊助を見て、思わず口を開いた。
「幼馴染が誰かに付きまとわれてるみたいなのに、直接様子を見に行かなくていいの?」
遊助の手がふと止まった。
「約束事があっただろ。一緒に過ごすと決めた時間は、外出中だろうと家にいる時だろうと、他の誰かのためにお前を置いて出て行かない」
なるほど、そのルールのせいで無理に残っているだけか。
真里亞は眉間を揉むと、手を軽く振った。
「そんなに危ないなら、今日は行ってくればいいわ。特別に許してあげる」
以前、夜中に家で水漏れがあった時、遊助が様子を見に帰りたいと言っても、決して許さなかった。それが今日は、園子に付き添うことを許すというのか。
遊助は意外そうに目を細め、どこか様子のおかしい真里亞を問い質したげだった。
「……どうしてだ?」
「お母さんも、妹さんも、その幼馴染も、あなたの人生で誰よりも大切な人たちでしょう。もし本当に何かあったら、この先ずっと悔やむことになるんじゃない?ただの親切心よ。行くも行かないも、勝手にして」
その気だるげな口調に、遊助はしばし呆気に取られ、真里亞を見る目つきが複雑なものに変わった。だが否定することもなく、すぐに表情を引き締めると、鍵を持って家を出て行った。
そのまま戻ってこなかった。
真里亞もどこへ行ったのかは尋ねず、傷の手当てを終えると休んだ。
翌日、自分の荷物をすべてまとめ、宅配便でアイルランドへ送る手続きをした。その中には、付き合っていた頃に買ったペアグッズや、遊助のために買った様々な品、それに無理やり撮らせたツーショット写真も交じっていた。
それらはすべて、捨てた。
3日目、友人数人とバーで軽く飲んでいるうちに、少し酔いが回り、自分たちの個室が分からなくなってしまった。
よろけながら階段を上ったり下りたりして何度も個室を探していると、1階のある個室の前を通りかかった時、ふと聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。
「遊助、本当に園子のために結婚式当日に逃げるつもりか?でもよ、あの真里亞がお前に注いできた本気の想いは、俺たち仲間はずっと見てきたんだぞ。それで真里亞との可能性まで全部捨てるのか?」
「真里亞は別に大した欠点もないだろ。ただお嬢様気質が強すぎるだけで。本当に結婚したら、一生尻に敷かれる羽目になるぜ?俺が言うのもなんだが、逃げちまえよ。少しは危機感を持たせて、あの高慢な女の鼻をへし折ってやれ!」
「俺もそう思うね。どうせあの女はお前にベタ惚れで、湯水のように金を注ぎ込んで、家族の反対を押し切ってまでプロポーズしてきたんだ。お前じゃなきゃ駄目ってはっきりしてる。
逃げたって、どうせ這いつくばって謝りに来るさ。その時は流れに乗って助け船を出してやりゃいい。もう腫れ物みたいにご機嫌取りをする必要もなくなるってもんだ」
仲間たちが言いたい放題言う中、遊助は酒を口に運びながら、一言も発さなかった。
遊助が黙ったままなので、仲間たちも彼の考えを測りかね、次々と探りを入れ始めた。
「遊助、お前、本当のところどう思ってるんだ?本当に逃げるなら、俺たちもカメラ持って撮りに行くからな。面白いことになりそうだ!」
「そうだよ、何とか言えって。何を迷ってる?まさか本気で真里亞のこと好きになったんじゃないだろうな?だったら逃げるのはなしだ」
真里亞は、半開きの扉の隙間から、氷のように冷たく澄んだ遊助の横顔を見つめた。
「好きだと?最初から最後まで無理やり付き合わされてる相手を、好きになれるわけないだろ。
この数年、俺が真里亞に抱いてるのは嫌悪感だけだ。それ以外、何もない」
第5話
一言一句漏らさず聞き届けた真里亞は、その場に固まった。
なるほど、共に過ごした1分1秒のすべてが、嫌悪だったのか。
構わない。もうすぐ、彼の苦しみも終わるのだから。
自嘲するように笑うと、彼女は気配を消すようにそっと背を向けて立ち去った。
きらびやかなホールは賑わいに満ちていた。さらに何杯か酒を頼んで飲み干すと、視界がぐらりと揺れ始めた。
朦朧とする意識の中、ひとりの男がグラスを手にして声をかけてきた。
本当に酔っていたのだろう、優馬によく似たその瞳を見つめているうちに、魔が差したように、差し出されたグラスを受け取ってしまった。
長く押し殺してきた向こう見ずな気性がふいに込み上げ、自ら男の腕に腕を絡めた。
「私と、乾杯しましょ。あなたの……あなたの名前、教えてくれない?」
「お酒なら付き合いますが、名前は勘弁してくださいよ。ね?」
真里亞はその瞳に溺れるように見入り、酔った戯言をぽつりぽつりと呟いた。
「教えて、くれないの……あなた、優馬でしょ?」
まばたきを繰り返し、その顔をはっきり見ようとした。
再び目を開けた時、目に映ったのは、狂ったように駆け寄ってきた遊助が、拳を振り上げて男の顔を殴りつける光景だった。
2人は揉み合いになり、酒瓶やグラスが床に散らばって砕け、その破片が真里亞の手を傷つけた。
その痛みで、一瞬だけ意識が覚めた。
よろめきながら前に出て遊助を止めた。
「私よ、私が自分から声をかけたの。遊助、なんで殴るのよッ!」
遊助の表情が、すっと凍りついた。射抜くような眼差しだった。
なぜだか分からないが、その視線に貫かれて、ふと後ろめたさを覚えた。
頭を軽く振り、酔いで濁った頭の中から、いくつかそれらしい理由を探し出した。
「ねえ、思わない……?あの人の目、あなたたちにちょっと似てたの。どうせ、あなたも私のこと好きじゃ、ないんだし。だったらもう、これから無理に私と付き合わなくていいわ。私、他の人を囲うことにするわ。どう?」
一言一言に、遊助の顔はどんどん暗く沈んでいった。
もう我慢の限界だとばかりに、腕を掴んでバーの外へ引きずり出した。
「もう飽きたから、遊んで捨てるつもりか?
言っとくが、俺は許さない!」
真里亞は手を軽く振り、いつものけだるげな口調で答えた。
「私たち、ただお互いの欲求を満たしているだけでしょ?それを、遊んで捨てるなんて言わないわよ。私があなたを囲えるなら、他の……他の人を囲ったって、いいじゃない」
その一言が、怒りに完全に火をつけた。
遊助は真里亞を勢いよく腕の中に引き寄せ、歯を食いしばりながら問い詰めた。
「そんなことしてみろ!」
真里亞は眉根をきつく寄せ、不満げな目を向けた。
「何が、駄目なのよ。あなただって、もともと優馬の……」
「遊助さん、私、お手洗いに行ってただけなのに、もう外に出ちゃったの?」
不意に現れた園子の声が、真里亞の思考を遮った。その声に、遊助も徐々に冷静さを取り戻した。
胸の内に渦巻く激情を押し殺し、真里亞を支えて立ち上がらせると、口調はもう平静を取り戻していた。
「こいつ酔ってる。俺が家まで送る。お前も出てきたなら、車に乗れ」
そう言うと、鍵を園子に放り投げ、真里亞を支えて後部座席に座らせた。
園子は車を運転しながら、時折後部座席の2人へと視線を投げかけた。
「真里亞さん、どうしてバーになんて来たの?」
「知らない」
素っ気ない返事を聞き、園子は目をくるりと動かすと、わざとらしく口を開いた。
「聞いた話だと、この人、遊助さんと出会う前に何人も彼氏がいたんだって。バーの常連だったらしいよ。遊助さん、こんな女と結婚しなくてよかったね。結婚した後に本性が出てきたら大変だったかも」
せっかく落ち着きかけていた遊助の心が、また波立った。
「園子、運転中は集中しろ!」
その厳しい口調に、園子はすっかり拗ねた様子で唇を尖らせ、顔を背けた。
「私に怒鳴るなんて……」
そう言いながらハンドルを切る園子は、前方の急カーブに気づいていなかった。
次の瞬間、車は真っ直ぐに山肌へと突っ込んでいった。
第6話
事故の瞬間、遊助は反射的に前へ飛び出し、園子を庇った。
朦朧としていた真里亞がまぶたを開けた時、目に飛び込んできたのはその光景だった。
真里亞は激しく車窓に頭を打ちつけ、鋭く砕けたガラスが額を切り裂いた。
痛みに顔を歪め、全身を震わせながら、喉の奥から苦しげな呻き声が漏れる。
血がどくどくと流れ落ち、視界を赤く染めていく。意識もどんどん遠のいていった。
完全に意識を失う直前、見たのは、遊助が園子を抱き上げる姿だった。
ドアが開き、また閉まり、2人の姿は消えていった。視界に残ったのは、揺らめくオレンジ色の炎だけだった。
再び目を覚ました時、真里亞は病院のベッドの上にいた。
ひとつ息を吸い込むと、頭が割れそうなほどの激痛が走った。
看護師が胸を軽く叩きながら、包帯を替えつつぽつぽつと話しかけてくる。
「大出血で危うく命を落とすところだったんですよ。彼氏さん、あちこちの病院に掛け合って必死に血液を手配して、ご自分もたくさん献血してくださって、それでやっと助かったんです」
その言葉に、わずかに呆然とした。
ぼんやりしていると、遊助が病室に入ってきた。相変わらず表情のない顔をしていて、声にも気遣いらしきものは微塵も感じられない。
「起きたのか。医者呼ぶか?」
その無関心な態度を見て、看護師の話していた人物と同一人物だとはとても信じられなかった。
乾いた唇を開き、掠れた声で尋ねた。
「看護師さんが言ってたけど……私を助けるために、たくさん献血してくれたって?」
遊助の目に一瞬、不自然な揺らぎがよぎった。声は冷たく硬いままだった。
「献血しなきゃ、お前死んでただろ。ただ、お前がこれまで俺に注ぎ込んだ金の礼をしただけだ。勘違いするな」
なるほど、恩返しのつもりだったのか。それなら納得できる。
真里亞は小さく相槌を打った。
「そういうことなら、もうこれでお互い借りはなしね。これまでの恩も恨みも、全部水に流しましょう」
はっきりと線を引こうとする口調に、遊助はなぜか落ち着かない気持ちになった。
弱々しい真里亞の様子を見つめ、酔った勢いでバーの前で口にしていた言葉をふと思い出し、顔を曇らせた。
「帳消し?俺がお前の命を救って、それで恩は返した。じゃあこれまでお前が俺に与えてきた苦しみは、どう清算するつもりだ?」
真里亞は、遊助という人間がますます分からなくなっていった。
一方では、結婚式当日に逃げ出して支配から完全に抜け出そうとしているくせに、もう一方では、円満に別れようとした途端、過去の帳簿を持ち出してくる。
この4年間に起きたことを丁寧に思い返してみても、囲う話を持ちかけたことや、お金を渡すたびにプライドを傷つけてきたこと以外に、実質的にどれほどの苦痛を与えたというのか、見当もつかなかった。
もしかして根に持っているのは、遊助と園子を引き裂き、想い合う2人を離れ離れにしたことだろうか。
あれこれ考えてみても、それ以外に筋の通った理由が思いつかなかった。
そうして何度も考えた末、ついに本音を打ち明け、結婚式を取りやめて自由にするつもりだと伝えようとしたその時、園子がいかにも傷ついたようなしおらしい顔をして、謝りながら入ってきた。
「真里亞さん、ごめんなさい。私が運転中によそ見をしたせいで、事故になっちゃって。これは遊助さんのせいじゃないの。怒るなら、私を怒って」
さっきまで硬い顔をしていた遊助は、園子の姿を見た途端、すぐさま表情を和らげた。
「お前のせいじゃない。全部俺がなんとかする」
そう言うと、振り返って真里亞をちらりと見て、口調まで変わった。
「園子は免許取ってまだ数ヶ月なんだ。俺が飲酒運転はしたくなかったから、彼女に鍵を渡した。あいつだってかなり怪我をしてる。文句があるなら俺に言え。こんなか弱い子を責めるな」
そうやって身内をかばう姿を、真里亞はしばし黙って見つめた後、思わず問いたださずにはいられなかった。
「私がいつ、あの子をいじめたっていうの?」
第7話
「お前が一番よく分かってるだろ」
そう言い捨てると、遊助は園子を連れて去っていった。
残された真里亞は、この4年間で園子と顔を合わせた数少ない記憶を何度も思い返してみたが、心当たりはなかった。こんな些細なことにこれ以上頭を悩ませる気にもなれず、考えるのをやめた。
それから数日、遊助は付き添いのヘルパーを手配して世話をさせた。彼は時折顔を出したが、あまり言葉を交わすこともなく、たいてい少し顔を見せるだけで帰っていく。
真里亞もそのほうが気楽で、傷の療養に専念することにした。
たまに検査室へ向かう途中、隣の病室の前を通りかかると、いつも遊助と園子が楽しげに笑い合っている光景が目に入った。
福子が用意した栄養食を持ってきては、丁寧に冷ましてから手渡してやる。入院生活を退屈させまいと、将棋盤を囲んだり映画を見たりして、昔話に花を咲かせる。園子の言葉ひとつひとつに辛抱強く耳を傾け、頼まれたことは何でも聞き入れてやっていた。
静かにその様子を眺めながら、ふと、かつての優馬の姿が重なって見えた気がした。
あの頃、骨折で入院していた時、優馬もこうして片時も離れず病室に寄り添い、こまやかに世話を焼いてくれたものだった。
これまでずっと、遊助と優馬は外見以外は似ても似つかない2人だと思っていた。けれど今この瞬間、愛する人に見せる姿だけは、2人とも全く同じなのだと悟った。
ただ違うのは、優馬が愛したのは自分で、遊助が愛しているのは園子だということ。
ようやく理解した。彼が言う「無理強いしてもいいことはない」という言葉の意味を。
沈んだ気持ちのまま病室に戻ると、その夜、長い夢を見た。
夢の中では、優馬は生きていて、役所に駆けつけ、婚姻届を出し、結婚してくれた。純白のウェディングドレスに身を包み、祝福の声に包まれながら嫁いでいく。
司会者がマイクを手に、この人と結婚する意思があるかと尋ねると、涙を流しながら答えた。「はい、喜んで」と。
その言葉が終わるや否や、夢は唐突に砕け散った。
幻から目覚めた瞬間、目に映ったのは、複雑な表情を浮かべる遊助の顔だった。
「何の夢を見てたんだ、そんなに泣いて」
手を上げて頬に触れ、指先にひんやりとした涙の感触を覚えた。目を閉じ、荒い息を整えながら、長い時間をかけてようやく気持ちを落ち着け、掠れた声で答えた。
「……っ、結婚する夢。生涯で一番愛している人に、嫁ぐ夢」
目を閉じたまま呟いていたので、驚きに見開かれた遊助の瞳に気づくことはなかった。そして遊助もまた、夢の中の花婿が自分ではないことを、知る由もなかった。
退院の日、遊助は自ら車を運転して迎えに来た。
道中、家へ向かう道ではないことに気づき、どこへ行くのかと尋ねた。
遊助の瞳が一瞬揺れ、曖昧にはぐらかした。
「着けば分かる」
真里亞もそれ以上は追及しなかった。
30分後、宝石店の中にいた。店員が持ってきたまばゆい輝きを放つペアの結婚指輪を見て、思わず目を見張る。
目が眩むほど大粒のダイヤモンドの指輪に言葉を失い、しばらく経ってようやく我に返って尋ねた。
「こんな高価な結婚指輪、何のために?」
「3日後には結婚式だろ。指輪、いらないのか?」
いつも通り素っ気ない口調だったが、それを聞いて思わず動きを止めた。
逃げるつもりなんじゃなかったの?どうせ本人は式に来ないのに、それでも指輪を用意するというのか。
考えていることはさっぱり分からなかったが、それでもこの指輪を心から気に入ってしまったので、これを優馬への供え物にしようと思った。
「この指輪、絶対高いでしょう。いくらだったか教えて、振り込むから」
それまで穏やかだった遊助の表情が、その言葉を聞いた途端に一気に曇った。
真里亞を睨みつけ、歯を食いしばって絞り出すように言った。
「指輪一組くらい、俺が買える」
第8話
遊助が買えることくらい、真里亞も分かっていた。
だが、この結婚式が決して成立しないことも、それ以上によく分かっていた。遊助に代金を払われてしまえば、この2つの指輪を自分のものにする口実がなくなってしまう。
だから慎重に考えを巡らせ、もっともらしい口実をひねり出した。
「ウェディングドレスも式場も、全部あなたが用意してくれたじゃない。私にも結婚式の準備に参加してる実感が欲しいの。指輪代くらい、私に払わせて」
「金ならもう払った。お前が気にすることじゃない。サイズが合うか確かめるだけでいい」
言葉には取り合わず、ただ手を取ると、そのダイヤの指輪を薬指にはめた。
銀色のリングは指の太さにぴたりと沿い、きつくもゆるくもなく、まるで誂えたかのようだった。
手を上げ、指先できらめくダイヤを眺めていると、胸いっぱいの満足感に包まれた。
うっとりと眺めていると、ふと遊助の声が耳に届いた。
「次はお前がはめる番だ」
振り向くと、節ばった手を差し出しているのが見えて、目つきがふと引き締まった。
これは、指輪をはめてほしいという意味だろうか。式で交換するわけでもないのに、ここまで大袈裟にする必要があるのか。
少なからず戸惑い、真意がますます分からなくなった。ためらいながらももう一方の指輪を手に取り、はめようとしたその時、遊助がふいに手を引っ込め、ポケットのスマホを取り出した。
席を立って電話に出た。会話の内容までは聞き取れなかったが、急に慌ただしくなった足取りと目つきに、真里亞は何か異変を察した。
ほどなく電話を切ると、一言だけ残して立ち去った。
「会社で急用ができた。指輪をしまって、運転手に家まで送らせろ」
素直に頷こうとした矢先、視界の端に、扉の外を横切る園子の姿がちらりと見えた。
これは園子絡みの用件かもしれないと察し、指輪を持ったまま、そっと後を追った。
ヒールで歩くのが遅く、追いついた頃には、遊助と園子が橋の上で互いに腕を引っ張り合いながら、言い争っているところだった。
「式から逃げるって約束したじゃない!なのになんで、あの人に指輪なんて買うのよ!」
「園子、落ち着け。話を聞けって」
「聞かない!あなた、私のこと騙してたのね!」
園子は少しも落ち着く気配がなく、力任せに遊助の腕を振りほどいた。頭に血が上ったのか、そのまま橋の欄干を乗り越え、川へ飛び込んでしまった。
遊助は一瞬の躊躇もなく、橋の上から続けて飛び込んだ。
あっという間に消えた2つの人影を前に、真里亞はその場に立ち尽くした。
まさか、後を追って心中するつもりなの?
急いで河原まで駆けつけると、遊助が園子を抱え、水の中でもがきながら岸へ向かっているところだった。
大量の水を吐き出した後、園子は全身ずぶ濡れになった遊助の姿を見て、わっと泣き出した。
「なんで助けたの!?私が死んだら、あなたが真里亞さんと結婚するのを邪魔する人、誰もいなくなったのに!」
無事だと分かり、遊助は大きく息を吐いた。手を伸ばして抱きしめ、優しく肩を叩きながら宥めた。
「そんなに取り乱すな。ちゃんと説明するから、話を聞いてくれ。お前と約束したことは破らない。ただ、真里亞にはまだ俺が逃げるつもりだって、気づかれちゃいけないから、それで指輪を用意したんだ」
その言葉に園子の涙はぴたりと止まり、潤んだ瞳で見上げた。
「本当に?」
「俺がお前を騙したことなんてあったか?」
一部始終を目の当たりにして、真里亞はようやく理解した。あの宝石店での姿は、ただの芝居だったのだと。
騙されていたと知っても、怒りは湧かず、ただ疲労だけを感じた。
涙を拭った園子は、ポケットからもう一組の指輪を取り出すと、期待に満ちた眼差しで差し出した。
「遊助さん、私を騙さないって言ったよね。キスして。そしたら、真里亞さんと結婚しないって信じるから」
第9話
真里亞は、遊助なら喜んですぐに応じるものだと思っていた。
だが遊助はなかなか口を開かず、動く気配もなかった。
園子の我慢も限界に達し、また死ぬと騒ぎ立てて、ようやく身を屈めて軽くキスしたが、すぐに離れた。
その微妙な様子には気づかず、園子は笑顔で胸に飛び込んだ。
仲直りした2人を眺めながら、真里亞は声もなく笑った。
黙って背を向けると、指にはめていた指輪を静かに外した。
家に戻った真里亞は、3日後にアイルランド行きの航空券を予約した。航空会社から確認の電話がかかってきて、それに応じた。
「はい、午前9時発のファーストクラスで」
話の途中で遊助が帰ってきて、意外そうな顔を向けた。
「何のファーストクラスだ?」
電話を切ると、平然と答えた。
「もちろん飛行機のよ」
「お義母さん、結婚式に来てくれることになったのか?いつ着く?迎えに行こうか?」
勘違いしているのに気づいたが、あえて訂正しなかった。
「いらない」
遊助はそれ以上尋ねることなく、ネクタイを緩めた。ふと室内を見回すと、家の中の物が随分減っていることに気づき、眉をひそめた。
「最近、業者に家の片付けでも頼んだのか?」
真里亞はさりげなく頷いた。
「そうよ。もうすぐ新しい生活が始まるんだもの。要らないものは処分しておかないと」
結婚後の新生活のことだと思い込み、彼は深くは考えず、浴室へと向かった。
残りの2日間、遊助は何をしているのか、ずっと家を空けていた。それについて詮索することはなかった。
結婚式前日、永住ビザを受け取り、優馬が生前一番好きだったひまわりを手に、墓地へ足を運んだ。
「優馬、あなたが亡くなる前、最後に私へ遺書を残してくれたでしょう。そこには、あなたに囚われず、新しい人生を歩んでほしいって書いてあった。でも7年経った今も、私はまだあなたを忘れられずにいる。怒ってる?」
「怒るなら怒っていいわ。どうせ私、いつもあなたを怒らせてばかりだったから。この先もずっと、私が愛するのはあなただけ」
心の中の言葉をとりとめもなく語り続け、墓標の前に長い長い時間立ち尽くした。
夕日が沈む頃、遊助から電話がかかってきて、今どこにいるのか尋ねられた。墓地の場所を告げると、迎えに行くと言った。真里亞も断らなかった。
車に乗り込むと、彼は珍しく気遣う言葉をかけた。
「明日はもう結婚式だってのに、今日墓地に行くってことは、このめでたい報告を身内のお墓にしに行ったのか?おじいさんかおばあさんの?」
真里亞は首を振り、話をはぐらかした。
「ただ故人を偲びに行っただけよ。それより、あなたこそどうして急に迎えに来たの?」
ハンドルを握る手がふと止まり、しばらく黙り込んでから、彼はようやく口を開いた。
「迎えに来たついでに伝えておく。今夜は俺が実家に泊まって、明日の朝また迎えに来る」
真里亞には分かっていた。今口にしていることはすべて、式をすっぽかすための口実にすぎないと。それでも、暴くことはしなかった。
家に着くと、彼は玄関先まで送り、家に入る前に呼び止めた。
「明日は……」
言いかけて、何かを思ったのか、また口をつぐんだ。
「じゃあ、また明日」
真里亞は答えず、ただ軽く手を振ると、そのまま家の中に入っていった。
その夜、ビデオカメラを取り出し、カメラに向かって上品で落ち着いた笑みを浮かべ、1本の動画を撮った。
「ご来賓の皆様、直接ご挨拶できず申し訳ございません。動画でのご報告となりますが、新郎が結婚式から逃げたのなら、私も逃げることにいたしました」
真里亞は6時までぐっすり眠り、電話で目を覚ました。
「式場でちょっとトラブルがあって、俺が先に対処しなきゃいけない。ホテルまでひとりで来られるか?」
「大丈夫よ」
彼女はあっさりと答えた。
電話を切ると、ゆっくりと起き上がって身支度を整え、朝食を軽く済ませてから、服を着替えて化粧をした。
7時、迎えの車が時間通りに到着した。
だが、彼女は車に乗り込まなかった。代わりに、あの一組の結婚指輪とビデオカメラを運転手に手渡し、わざわざこう言い添えた。
「式場に着いたら、この映像を司会の方に渡して。もともと流す予定だった前撮りのムービーの代わりに、これを流してもらって」
そして、走り去っていく車を見送ると、スーツケースを引いてタクシーを止め、空港へと向かった。
遊助の連絡先をすべて削除し終えた頃、ちょうど搭乗案内のアナウンスが流れた。
この街を最後にもう一度見つめ、真里亞は笑いながらそっと呟いた。
さようなら、西京市。
さようなら、遊助。