第1章
姉の佐藤鈴(さとう すず)の結婚式のリハーサルの日、私――佐藤夕花(さとう ゆうか)が「ちょっと喉がかゆい」と言っただけで、母の佐藤静枝(さとう しずえ)は私をメイクルームに閉じ込め、外へ出さなかった。
「鈴に大事なことがあるたびに、あんたは病気のふりをして気を引こうとするんだから。今日はおとなしく中にいなさい。そこから一歩も出ないで、目障りだから!」
喉はたちまち腫れ上がり、息がどんどん苦しくなった。私は扉を叩き、薬を取りに行きたいから開けてほしいとお母さんに訴えた。
けれどお母さんは、扉の隙間から私を冷ややかに一瞥しただけで、内側から開けられないように再び鍵をかけてしまった。
「顔も赤くなっていないのに、喉が少しかゆいくらいで何だっていうの?今日は鈴が目立つのが気に入らないだけでしょ!」
お母さんは知らなかったのだ。リハーサルで使われているカスミソウが、私にとって最も致命的なアレルゲンであるということを。
顔はすでに腫れ上がって変形し始め、私は扉の向こうに駆けつけてきたお姉ちゃんに助けを求めるしかなかった。けれど、お姉ちゃんは眉をひそめた。
「私の一番大切な日に、また騒ぎを起こすのはやめてくれない?少しくらい我慢したって死なないでしょ?」
でも、私は本当に死ぬのだ。
窒息しかけた私はずるずると床にへたり込み、最後に見たのは、扉の下の隙間を行き来するハイヒールの影だった。
ブライズメイドの一人が、中から何の物音もしなくなったと告げた。だが、お母さんは得意げに笑った。
「ほらね。相手にしないのが正解なのよ。騒ぎ疲れれば、自然とおとなしくなるんだから!」
だけど、お母さん。私はもう二度と騒がないよ――
ゆっくりと宙へ浮かび上がり、腫れきったあの体から、ようやく抜け出したのだから。
お姉ちゃんの頭上を漂いながら、ティアラを試着する姿を見下ろし、私は身を縮めるように両手で自分の顔を覆った。
ごめんね、お姉ちゃん。私、またお姉ちゃんの迷惑になっちゃったね……
第1話
メイクルームの天井近くを漂いながら、死んだ人間には重さがないのだと、私は初めて知った。
ついさっきまで大きな手に強く握りつぶされているようだった喉も、もう痛まない。
下を見ると、私の体は扉の内側で丸くうずくまっていた。顔はパンパンに腫れ上がって皮膚が張り詰め、唇は青紫色に変色し、硬直した指先はまだ扉の下の隙間に引っかかっている。
それなのに扉の外は、まるで別世界のように華やいでいた。
お姉ちゃんはメインステージの中央に立っていた。ウエディングドレスの裾が床一面に広がり、照明に照らされたその姿は、まるで白い光をまとっているようだった。
お母さんはお姉ちゃんのベールを整えている。その声があまりにも優しくて、私は自分の母親のものとは思えないほどだった。
「鈴、緊張しないで。今日はただのリハーサルよ。明日になれば、あなたが会場で一番きれいな花嫁なんだから」
私は反射的にびくりと肩をすくめた。
ごめんね、お姉ちゃん。
私、また全部台無しにしちゃったみたい……
メイクルームの前にいたブライズメイドの村瀬真帆(むらせ まほ)が、不意に眉を寄せた。
「静枝さん、中から何も聞こえなくなりました。さっきまでずっと扉を叩いていたのに」
お母さんの顔から、笑みが一瞬で消えた。
振り返ってメイクルームの扉を見たその目には、苛立ちしか浮かんでいない。
「放っておいて。あの子は昔からそうなの。鈴に何か大切なことがあると、必ず具合が悪いと言い出すんだから」
真帆はためらいながらしゃがみ込み、扉の隙間をのぞき込んだ。
私も、その視線を追って下を見た。
扉の下の隙間から覗く私の手は、もうピクリとも動いていない。
真帆の顔色が変わった。
「でも……この手、さっきからずっと力なく投げ出されたままです。一度、扉を開けて確認したほうがいいんじゃありませんか?」
お母さんはすぐそばまで歩み寄り、真帆の視界を遮った。
「そうやって可哀想なふりをして気を引くのが、あの子の得意技なのよ。鈴の進学祝いのときだって、急に息ができないなんて言い出して、親戚の目を全部自分に向けさせたんだから。
鈴の十八歳の誕生日のときもそうよ。ケーキの前で急に発疹を出して、家族みんなで病院へ行く羽目になったわ」
私は呆然と聞いていた。
その二つの出来事を、私ははっきりと覚えている。
進学祝いの日、ホテルの宴会場にはユリが所狭しと飾られていた。私はエビを一口食べたあとで喉が締め付けられるように苦しくなり、洗面所に逃げ込んで、冷たい水で顔を洗っていた。
お母さんが飛び込んできたとき、ようやく私の異変に気づいてくれたのだと思った。
けれど最初に投げつけられたのは、こんな言葉だった。
「夕花。今日は鈴がやっと志望校に受かったお祝いなのよ。あんた、鈴から注目を奪うのはやめてくれない?」
お姉ちゃんの誕生日のときも、ケーキの隣の花籠にはカスミソウが入っていた。
腕一面に赤い発疹が広がったのに、苦しいとは言えず、私はただ袖を引き下ろして隠した。
それを見たお姉ちゃんは、友達の前で薄く笑った。
「自分がか弱くて可哀想だって、みんなにアピールせずにはいられないわけ?」
それ以来、私は我慢することを覚えた。
喉がかゆくても我慢する。目が腫れても我慢する。息ができなくなっても我慢する。
苦しいと口にした途端、家族が真っ先に考えるのは、私がまた気を引こうとしてわがままを言っているのではないか、ということだったから。
お母さんの話を聞き終えた真帆の目からは、案の定、心配の色が薄れていた。
真帆は立ち上がると、小さな声で言った。「それなら、本当に気を引きたいだけなのかもしれませんね……」
私は焦って飛びつき、その手をつかもうとした。
行かないで。お願い、もう一度だけ見て。
私、本当に動いていないの。演技じゃない。
けれど私の手は、冷たい霧をすり抜けるように、真帆の腕をむなしく通り過ぎた。
リハーサルの音楽が不意に一拍分途切れ、お姉ちゃんが眉をひそめてこちらを見た。
「お母さん、あの子はいつまで騒いでる気?カメラマンだって立ち位置の確認を待ってるのに」
お母さんは急いで振り返り、お姉ちゃんをなだめた。
「大丈夫。お母さんが何とかするわ。今日は誰にも鈴の邪魔はさせないから」
お姉ちゃんは唇を結び、声を落とした。けれどその言葉は、私の耳にはっきりと届いた。
「いつもこうなんだから。私が結婚するっていうのに、どこまで私を苦しめれば気が済むの?」
震えるような悲しみが押し寄せた。
お姉ちゃん、違うよ。
私はただ、生きたかっただけ。
けれど、誰にも聞こえなかった。
ウェディングプランナーの高瀬伊織(たかせ いおり)が、インカムを手に駆け寄ってきた。
「鈴様、メインステージのカスミソウが多すぎて、お二人の入場動線を塞いでしまっております。少し撤去いたしましょうか?」
お姉ちゃんはステージ脇に広がる白い花を見つめ、しばらく迷った。
「捨てないで。明日も使うから」
お母さんがすぐに口を挟んだ。「それなら、メイクルームの前に運んでちょうだい。鈴のリハーサルの邪魔にならないように」
私は弾かれたように振り返った。
式場スタッフが、カスミソウの大きな束を幾つも抱え、私が死んでいるあの部屋の扉の前へ歩いてくる。
細かな白い花が扉の前に積み重なり、遅れて降り始めた雪のように見えた。
そして扉の内側にある私の体は、首のあたりが目に見える速さで、さらにどす黒く腫れ上がっていった。
第2話
エアコンは、まだ冷たい風を送り続けていた。
扉の前に山積みになったカスミソウが送風口の風にあおられ、目に見えない埃のような細かな花粉が、少しずつメイクルームの隙間から入り込んでくる。
私は扉のそばを漂いながら、それが自分の顔や首、服の襟元へ容赦なく降り積もるのを、ただ見つめることしかできなかった。
すでに死んだ体は、もう苦しんでもがくこともない。
それでも顔はさらにひどく腫れ上がり、無理やり水を注ぎ込まれた風船のように膨れ上がっていった。
私は怖くなり、思わず手で自分の顔を覆った。
お姉ちゃんが今の私を見たら、きっとますます腹を立てるだろう。
お姉ちゃんは、私のみっともない姿を何よりも嫌っていたから。
扉の外では、華やかなリハーサルが続いている。
司会者が声を張った。「ここで新婦様が新郎様の腕を取ります。照明、追ってください。音楽、スタート!」
お姉ちゃんは柊景真(ひいらぎ けいま)の腕に自分の腕を絡ませ、一歩ずつフラワーアーチへ向かって歩き出した。
赤いバージンロードを引きずるドレスの裾を見つめていると、胸の奥がひどく疼いた。
本当は、この結婚式が無事に終わることを、私は誰よりも願っていたのに。
式の1ヶ月前、お姉ちゃんが料理の試食は疲れると文句を言ったため、私が仕事を休み、お母さんとホテルへ行った。お姉ちゃんがネギを食べないこと、甘すぎるものが苦手なこと、親族から魚介の鮮度に文句を言われるのを心配していることまで、料理一品ごとに細かくメモを取った。
進行表を作り直したのも私だった。
お姉ちゃんは伊織が作った資料は分かりにくいと言って、私に放り投げてきた。
私は午前3時まで起きて、両家への挨拶、ゲストの出迎え、お色直しの時間を一つずつ組み直した。お姉ちゃんが読むのを面倒がらないように、わざわざピンク色を基調にした見やすいデザインまで作った。
今日のリハーサルだってそうだ。本来なら私は、会社でとても重要なプロジェクトの報告を担当するはずだった。
けれど、お母さんに「鈴の結婚は一生に一度の大事なことなのよ」と押し切られ、私はその機会を同僚に譲るしかなかった。
文句一つ言わず、聞き分けのいい子でいさえすれば、もうこれ以上嫌われることはない。私はずっと、そう信じていた。
ところが一昨日、ぜんそくの発作が起きてリビングでうずくまり、吸入器を使っていたとき、ちょうどお姉ちゃんがウエディングドレスの試着から帰ってきた。
私が使っているネブライザーを見るなり、お姉ちゃんの顔は険しくなった。
「夕花、私の結婚式の直前に、そういう縁起でもないことするのやめてくれない?」
私は慌てて薬を背中に隠し、お姉ちゃんに謝った。
お母さんも、私が不吉な空気を持ち込んだと嫌な顔をした。そして今日はおとなしく後ろについてきて、絶対に問題を起こすなと釘を刺されたのだ。
私は約束した。それなのに、また守れなかった。
突然、メイクルームの中で激しい着信音が鳴り響いた。
私のスマホだった。
画面が何度も明滅し、「緊急連絡先へ発信中」と表示されている。
そこで思い出した。主治医の先生が、私のアレルギーモニタリングブレスレットを緊急通報アプリと連携させてくれていたのだ。
心拍数や血中酸素濃度に異常が出ると、自動で家族に連絡し、位置情報とともに救急に通報する仕組みだった。
私は命綱を見つけたような気持ちで、スマホへ飛びついた。
お母さん!電話に出て!
警告音を聞いてくれれば、私に本当に何か起きたのだと分かるはずだから!
着信音は鳴り続けた。
扉の外では、ブライズメイドたちが顔を見合わせている。
「静枝さん、夕花さんのスマホがずっと鳴っています。本当に何か急用があるんじゃありませんか?」
お母さんは表情を曇らせると、腰をかがめ、しばらく扉の隙間を探った。そしてとうとう、スマホを外へ引っ張り出した。
画面に表示された「緊急通報」の文字を見て、お母さんは鼻で笑った。
「こんな小細工まで覚えたのね」
私は呆然とした。違うよ。
お母さん、それは小細工なんかじゃない。先生が、私の命を救うために設定してくれたものなの。
けれどお母さんはすでにスマホを持ち上げ、周りの人たちへ見せびらかしていた。
「ほら、わざとなのよ。閉じ込められた腹いせに、スマホを鳴らし続けてリハーサルを邪魔しようとしているのよ」
離れたところで聞いていたお姉ちゃんは、さらに険しい顔になった。
「お母さん、それ、電源切って。明日の結婚式でも同じことされたら、私、本当に耐えられない」
お母さんは下を向き、ためらいもせず電源ボタンを長押しした。
画面が暗くなった瞬間、私の魂からもすべての希望が抜き取られたような気がした。
最後に残されていた助けを求める道まで、完全に断たれてしまった。
私はお母さんのそばへ漂っていき、もう一度電源を入れてほしいと必死に訴えた。
けれどお母さんは、すでに私のスマホを自分のバッグへ押し込み、またお姉ちゃんのドレスの裾を整えに戻っていた。
少しすると、何かを思い出したように、扉のそばに置かれていた私のバッグを手に取り、中を探り始めた。
私は、はっとした。
バッグの内ポケットには、エピペンが入っている。
先生から何度も何度も念を押され、必ず持ち歩くように言われていた、私の命を救う薬だ。
お母さんはそれを取り出すと、ますます深く眉をひそめた。
「これは何?」
真帆が小声で答えた。「重いアレルギー症状が出たときに使う、緊急用の薬だと思います」
私は、うれしさのあまり泣き出しそうになった。
そう、それ。それだよ。
お母さん、お願い。扉を開けて、私に使って。
もう手遅れだとしても、せめて、これ以上みっともない姿にならずに済ませて。
だがお母さんはエピペンを数秒見つめたあと、急にあざけるように笑った。
「ずいぶん用意がいいこと」
無造作に投げ捨てられた救命用のエピペンは、ゴミ箱の中へ落ちた。
「病気のふりをするために、小道具まで揃えるなんてね」
第3話
ゴミ箱は、メイクルームのすぐ前にあった。
エピペンは丸められたティッシュと捨てられた花の枝の間に、静かに横たわっている。私との距離は、2メートルもない。
生きていた頃、私はそれがバッグに入っているか、何度も何度も確かめていた。
先生からは、私が特定の花粉に反応する速度はあまりにも早く、ひとたび喉頭浮腫が起きれば、数分で窒息する危険があると警告されていた。
だからお風呂に入るときもそばに置き、外出するときも持ち歩き、眠るときでさえ枕元に置いていた。
けれど今、それはあそこにある。
私がつかみ損ねた、命のように。
伊織は、考えれば考えるほど不安になったらしい。お姉ちゃんがメイクを直している隙に、扉の前までやってきた。
「静枝さん、やはり一度、扉を開けて確認しませんか?メイクルームはそれほど広くありませんし、こんなに長く施錠したままでは、もし中で酸欠状態にでもなっていたら……」
お母さんの顔に、一瞬だけためらいがよぎった。
私は急いでそばへ漂い、必死に何度もうなずいた。
開けて。
一度見るだけでいいから。
一度見てくれさえすれば、私が演技で騒いでいるんじゃないって分かるから。
しかしそのとき、お姉ちゃんがハイヒールを鳴らして歩いてきた。
試着用のティアラをつけたばかりで、完璧に整ったその顔立ちは、まるでショーウインドーに飾られた人形のようだった。
「酸欠?」お姉ちゃんは小さく鼻で笑った。「さっきまであれだけ大声で叫んでいたのに、酸欠になるわけないでしょ」
伊織は困ったように言った。「ですが、今は何の声も聞こえませんし……」
お姉ちゃんの顔が瞬く間に冷たくなった。
「私たちが心配して構うのを待ってるだけよ。相手にすればするほど、図に乗ってもっと騒ぐんだから」
そう言いながら、お姉ちゃんはお母さんの手からメイクルームの予備の鍵を取り上げた。
お母さんは驚いて目を見開いた。
「鈴?」
お母さんの声だった。お姉ちゃんは予備の鍵を手のひらにきつく握り込んでいた。声は大きくなかったが、硬く断ち切るような響きがあった。
「今日はもう、あの子のせいで止まりたくない。誰も扉を開けないで」
ブライズメイドたちがすぐに扉の前へ集まった。
その中の一人が、小さな声で尋ねた。
「でも、本当に中で何か起きていたら……」
お姉ちゃんの目がたちまち赤くなった。
「みんなまで、花嫁の私があの子に我慢して譲るのが当然だって思ってるわけ?小さい頃から、夕花が少しでも具合を悪くするたびに、家族全員があの子にかかりきりだった。
でも私は?私はいつも聞き分けのいい姉でいなきゃいけなくて、自分の大切な日にまであの子のために我慢しなきゃいけないの?」
周囲は一瞬で静まり返った。
お母さんは胸を痛めたように、慌ててお姉ちゃんを抱き締めた。
「誰が鈴に我慢しろなんて言ったの?今日は鈴が主役の日なのよ」
私は呆然とお姉ちゃんを見つめた。
お姉ちゃんにとって、私が病気になることは、お姉ちゃんから何かを奪うことだったんだ。
でも、お姉ちゃん。知ってる?
お姉ちゃんが私のアレルギーを鬱陶しがっていた頃、私もひそかに、お姉ちゃんをうらやんでいたんだよ。
きれいな服を着られること。花の中に立って写真を撮れること。いつも薬の詰まったバッグを背負わずにいられること。
何より、お母さんがお姉ちゃんを見るとき、その目が誇らしさでいっぱいになることが、たまらなくうらやましかった。
お姉ちゃんのものを奪おうとしたことなんて、一度もない。ただ、少しでも邪魔にならないように生きたかっただけなのに。
扉の外では、カスミソウの匂いがますます濃くなっていった。
私はふと、半年前、お姉ちゃんが花材を選んでいた日のことを思い出した。あのとき私は、慎重に言葉を選んで伝えたのだ。
「お姉ちゃん、カスミソウを少し減らせないかな。私、この花のアレルギー、すごくきついから」
お姉ちゃんは結婚式のカタログをめくっていた。私の言葉を聞くと、うんざりしたように顔を上げた。
「またその話?」
あとになって私は知った。景真のかつての恋人、星野結希(ほしの ゆき)が、一番好きだった花もカスミソウだったのだ。
お姉ちゃんは表向き、結希のことなど気にしていないふりをしていた。その裏で、結婚式のテーマを「春霞」に決めていた。
景真が最後に結婚相手として選ぶのは自分なのだと、みんなに見せつけるためだと言っていた。
私は、それ以上説得できなかった。
ただ伊織にこっそり連絡し、自分がいる区画だけは花を置かないように変えてもらった。
けれど、それを知ったお姉ちゃんは激怒した。
「夕花、私のことそんなにバカにしたいわけ?結婚式の花にまで、あんたに口出しされなきゃいけないの?」
その結果、今日のリハーサル会場は、隅から隅までカスミソウで埋め尽くされている。
私の死さえも、お姉ちゃんの勝利を飾る舞台装置の一部になったようだった。
メイクルームの中で、倒れた椅子に引っかかっていた私の体が不意にずり落ち、ゴトッと鈍い音を立てた。
扉の外にいた人たちは、そろって息をのんだ。
伊織の顔から血の気が引いた。
「中で何かが倒れたようです!」
お姉ちゃんは勢いよく振り返った。その目に残っていた最後の迷いまでもが、怒りに塗り潰された。
「また物を壊し始めたのね」
私は泣きながら首を振った。
物を壊したんじゃない。私が倒れたとき、脚が椅子に引っかかっていたのがずれただけなの。
けれどお姉ちゃんは、もう式場スタッフへ向き直っていた。
「扉の前を塞いで。急に飛び出してこないようにして」
スタッフが2人がかりで大型の備品ケースを運び、メイクルームの扉へ押しつけた。
お姉ちゃんは完全に塞がれた扉を見て、ようやくほっとしたようだった。
「リハーサルを続けて」
第4話
大型の備品ケースが扉に押し当てられた瞬間、メイクルームは完全に密閉された墓と化した。
私は宙に浮かび、室内でエアコンが低く唸り続ける音と、扉の外で何度も繰り返される音楽を聞いていた。
この結婚式の一音一音が、私の死体を踏みつけているようだった。
メイク担当の桐谷奈緒(きりたに なお)が化粧直し用のミストを取りに来たとき、扉の下から少量の水がにじみ出ていることに気づいた。
奈緒は足を止めた。
「ここ、どうして濡れているんでしょう?」
ブライズメイドの1人がそこを見て、眉をひそめた。
「中で飲み物でもこぼしたんじゃない?」
声を聞いてやってきたお母さんは、たちまち険しい顔になった。
「わざとよ。扉を開けてもらえない腹いせに、今度は会場を汚し始めたのよ」
私はその小さな水の跡を見つめ、全身が冷たくなるのを感じた。
飲み物なんかじゃない。
私が死ぬ前にもがいたとき、水の入ったグラスを倒してしまったのだ。吐き出した粘液と涙がそこへ混じり、少しずつ扉の隙間から流れ出していただけだ。
けれど、私には説明できない。
奈緒はしゃがみ込み、ティッシュで拭き取ろうとした。
次の瞬間、扉の隙間から出ている指が目に入った。
「きゃっ!」
奈緒は驚いて一歩後ろへ下がった。
お母さんも、それを見た。
倒れた椅子に押さえつけられた私の手は、指の関節が不自然に曲がり、爪が異様な紫色に変色していた。
お母さんは一瞬、動きを止めた。
私は、お母さんもようやく事態の深刻さに気づいて怖くなったのだと思った。
けれどお母さんはすぐに歯を食いしばり、再び怒りを燃え上がらせた。
「夕花!」
お母さんは片足を上げ、外へ出ている私の指をヒールで強く踏みつけた。
私の魂が激しく跳ねた。死んだあとでさえ、その骨が砕けるような痛みを感じた気がした。
「まだ指なんか出して、そんな当てつけがましい真似をするつもり?鈴が結婚するのが、それほど憎いの?」
そばにいた誰かが、小さな声で言った。
「静枝さん、その指、わざと動かしているようには見えませんけど……」
お母さんは冷ややかな目を向けた。
「みんなは、あの子の本当の性格を知らないのよ。こういう陰湿なやり方で人を不愉快にするのが、あの子は一番得意なんだから」
私は宙で体を丸めた。涙が一粒ずつこぼれたのに、それが床へ落ちることはなかった。
お母さん、私は当てつけであんな指の形にしたんじゃないよ。
死ぬ前、あまりにも息が苦しくて、手があんなふうに固まってしまっただけなの。
そのとき、景真が1人の男性を連れて会場へ入ってきた。
男性は薄いグレーのスーツを着て、医師用の救急バッグを手にしていた。
「俺の友人の田村真翔(たむら まなと)だ。ちょうどリハーサルに顔を出してくれてね」
真翔は最初、景真と一緒に関係者へ挨拶を交わしていただけだった。だがメイクルームの前を通りかかったとき、急に足を止めた。
扉の隙間から出ている私の手を見つめ、さらに手首から半分のぞく医療用ブレスレットに気づいたのだ。
真翔の顔色が一変した。
「中にいるのは誰ですか?」
お姉ちゃんは苛立たしそうに答えた。「私の妹です。拗ねて騒いでいるだけですから」
真翔はしゃがみ込み、ブレスレットの医療アラート表示を注意深く確認した。
そこには、はっきりと記されていた。
――重度の花粉アレルギー。エピペンを常時携帯。
真翔の声が一気に低くなった。
「扉を開けてください」
お母さんは眉をひそめた。
「先生は、事情をご存知ないでしょうけど……」
「ご家庭の事情を知る必要はありません」真翔は立ち上がると、早口で、しかし断固とした口調で続けた。「手が明らかに冷たく、爪が紫色になっています。しかも扉の前はカスミソウだらけです。重篤なアレルギー反応を起こしている可能性があります。直ちに処置しなければなりません」
お姉ちゃんの顔が青ざめた。それでも無理に冷笑を浮かべた。
「田村先生、事前に夕花から何か頼まれていたんですか?あの子、人に自分の芝居を手伝わせるのが大好きなんですよ」
景真が初めて眉をひそめた。
「鈴、そんな言い方はやめろ。本当に何か起きていたら……」
お姉ちゃんは勢いよく景真を振り返った。
「あなたまで、今日あの子の味方をするの?」
景真は少しの間黙ったあと、やはりお母さんへ視線を向けた。
「お義母さん、まず扉を開けてください。リハーサルは後回しで構いませんから」
お母さんの手が震えた。
その目に、ようやくわずかな動揺が浮かぶのが見えた。
しかしお姉ちゃんは、最後に残った体面まで握り締めるように、鍵をきつくつかんでいた。
「開けないわ。もし本当に苦しかったのなら、さっきまで扉を叩いたり、物を壊したりする力なんて残っていなかったはずよ」
真翔は突然振り返り、ゴミ箱の中を探し始めた。
数秒後、お母さんが捨てたエピペンを拾い上げた。
一目確認した真翔の顔が、完全に険しくなった。
「このエピペンは使用されていません」
周囲は、恐ろしいほど静まり返った。
真翔は一言一言、噛み含めるように告げた。
「中にいる人が本当に重度のアレルギー患者なら、お二人がたった今捨てたものは、その人に残されていた、生き延びるための唯一の手段です」
第5話
お姉ちゃんの顔が一瞬、真っ白になった。
けれどすぐにドレスの裾を強く握り締めた。声は震えているのに、それでも頑なだった。
「そんなはずない。さっきまで扉を叩いて、助けを呼んでたくらいなんだから。どうして、そこまでひどい状態だっていうのよ?」
お母さんも、すがるように同調した。
「そうよ。さっきは顔だって赤くなっていなかったわ。アレルギーなら、顔中が真っ赤になるはずでしょ?喉がかゆいくらいで、そんな大ごとになるわけないじゃない!」
真翔は、まるで理解不能な人間を2人も目の前にしたような目で、お母さんとお姉ちゃんを見た。
「重度の喉頭浮腫は窒息を引き起こします。全員が必ず顔が赤くなるわけではありません。手はすでに冷たく、爪は紫色に変色しています。しかも、中からは自発的な反応が一切ありません」
真翔は扉の隙間を指さした。
「これは拗ねているのではありません。瀕死の状態なんです。すでに亡くなっている可能性さえあります」
「亡くなっている」という言葉が響いた瞬間、周囲の全員が凍りついた。
私もだ。
ようやく、誰かが私の本当の状況を代弁してくれた。
でも、生きた私がその言葉を聞くことは、もうできなかった。
お姉ちゃんは半歩よろめいて後ずさった。ティアラについた細かなビーズチェーンが、かすかに揺れた。
「な、なに馬鹿なこと言ってるの……!」
お姉ちゃんは景真を見た。自分の側に立ってほしいと懇願するような目だった。
「景真、あなたもさっき聞いたでしょ?夕花は扉を叩いていた。死んだ人間が、扉なんか叩けるわけないじゃない!」
景真は険しい顔でスマホを取り出した。
「警察に通報する。救急車も呼ぶ」
お姉ちゃんは景真の手首をつかんだ。
「今日は私たちのリハーサルなのよ!」
景真はその手を振り払い、初めて冷たい声を出した。
「中で本当に何か起きているなら、リハーサルなんか気にしてる場合か?」
お母さんも慌て始めていた。それでも、まだ認めようとしなかった。
「あの子は昔から演技が上手なの。今日が鈴にとって大切な日だって分かっているから、わざと騒ぎを大きくしているのよ。今ここで警察なんて呼んだら、明日の結婚式はどうなるの?」
真翔は怒りのあまり、目の縁を赤くしていた。
「結婚式はやり直せます。でも、人の命はやり直せません」
真翔は伊織からインカムを奪い取り、式場スタッフに工具を持ってくるよう指示した。
けれど扉の前には大型の備品ケースが押しつけられ、予備の鍵はお姉ちゃんが握りしめたままだ。現場はたちまち混乱に陥った。
ケースを動かそうとする者、電話をかける者、恐怖でようやく泣き始める者までいた。
ついさっきまで私の演技を疑っていたブライズメイドの真帆は、口元を押さえ、まともに声を出せないほど震えていた。
「私……さっき、もっと強く扉を開けるよう言うべきだったんでしょうか?」
誰も答えなかった。
お母さんはその場に立ち尽くし、扉を見つめていた。唇がひっきりなしに小刻みに震えている。
ようやく何かを思い出したようだった。
私が扉を叩きながら、かすれた声で「お母さん、薬はバッグの中にある」と必死に叫んでいたこと。
私の声が次第に弱々しくなり、最後には爪で扉を引っかく耳障りな音しか残らなかったこと。
扉の隙間から私を見たとき、私はすでに床にひざまずき、頬が異様なほど腫れ上がっていたこと。
それなのに、お母さんは冷笑しただけだった。
――「もう演技はやめなさい」と。
私はお母さんの前へ漂っていき、そっと呼びかけた。
お母さん。
今になって怖くなったことを、責めてはいないよ。
ただ、少しだけ悲しいの。
もう少し早く私を信じてくれていたら――ほんの1秒でも早かったら、私は生きたまま、お姉ちゃんの結婚式を見届けられたのかな。
救急車のサイレンが遠くから近づき、式場に流れる華やかな音楽を鋭く切り裂いた。
救急隊員たちが器材を手に駆け込んできた。その先頭にいたのは、救急救命士の大森直人(おおもり なおと)だった。
真翔は早口で状況を引き継いだ。「女性、重度の花粉アレルギー。喉頭浮腫による窒息の疑いがあります。扉は外から施錠され、緊急用のエピペンは未使用です」
直人の顔色が変わった。すぐに扉の破壊準備へ移ろうとしたが、お母さんが突然、扉の前に立ちはだかった。
「壊さないで!ホテルの扉なのよ。壊したら、誰が弁償するっていうの?」
お姉ちゃんも両腕を広げ、救急隊員たちを遮った。
「中の妹は、さっきまで扉を叩けていました。みなさんが言うほど重症じゃありません。今日は私の結婚式のリハーサルなんです。これ以上、大ごとにしないでくれませんか?」
直人は、こんな理不尽な人間を初めて見たとでもいうように、2人を鋭く見据えた。
「どいてください!あと1秒遅れるだけでも、命を失う危険があるんです!」
それでもお母さんは、鍵の辺りを必死にかばった。
「私はあの子の実の母親です。みなさんより、ずっとあの子の性格を分かっています。わざと倒れて気絶したふりをして、リハーサルを中止させようとしているだけなんですから!」
言い争うさなか、直人が突然しゃがみ込んだ。
狭い扉の隙間から、私の青紫色の指、腫れ上がって変形した顔、そして倒れた体の周囲に散らばるカスミソウが見えたのだ。
直人の表情が一瞬で険しくなった。すぐさま立ち上がり、背後の隊員へ鋭く命じた。
「破壊救助器具を持て!患者はすでに瀕死状態だ。直ちに扉を破壊して救命処置を開始する!」